Pochitto(ぽちっト)神戸 | ぽちトピックス(ふれ愛びと)
更新:2022.7.23
第32回---ぽちトピックス(ふれ愛びと)
- Q山善寿司大将のお話です。
- A明治の終わりから大正、昭和にかけて祖父善雄、祖母英は栄町7丁目にあった鈴木商店の近所で、米、酒を扱う商売をしていました。昭和初期の米騒動の際に、鈴木商店と間違われて祖父母の店も、トアロードの山口銀行辺りにあった支店ともども焼き討ちにあいました。その時に、手を差し伸べてくれたのが、須磨離宮付近にあった豪邸、室谷家の藤七さんの六甲山にあった別荘にしばらく暮らさせてもらったと聞いています。その時に生まれたのが、父善次郎です。近所に親戚が営んでいた、カレーが有名だったゴルフ茶屋もあり、小学校もケーブルで六甲小学校に通っていたそうです。少し経って落ち着いたのか、川西市に移り、終戦もそこで迎えました。が昭和18年に善次郎はイタリア人の貿易会社に勤めていた長男の善一さんに、徴兵にとられたから、もう生きては帰って来ないだろうから、善雄、英の事を頼むと言われたとの事です。当時の神戸の外国人から日本の戦況の事を聞いていた善一さんは覚悟を決めて戦争に行ったそうです。その時が最後の会話やったとの事です。善一さんはビルマのインパール作戦で戦死しました。
終戦後、善次郎は川西から長田区の神戸村野工業に入学しました。当時は機械科を始め最新式の旋盤機を導入しており、卒業後は即戦力として重宝がられ、灘高校よりもレベルが上やったと自慢げに話していました。が、何故か阪急バスに入社しています。車掌さんで乗っている時は、みんなの憧れの的やったとも聞いています。善雄、英さんはその後、親戚を頼り、無動寺の近所に雑貨屋を始めます。兄の遺言を守るために、善次郎も移り住みます。これからは自動車の世界が来ると、本山に有った甲南交通に入り、タクシードライバーとして、ハイヤー担当勤務としてバイオリンの辻久子さんを始め高島忠夫さんや高砂親方等まあまあの有名人のドライバーをしていたとの事です。その頃に京都東山の疎水沿いに住んでいた母、準子と結婚、昭和33年に長男善幸が誕生、35年に高明も生まれます。その後組合活動を経て管理職になりましたが、深夜でも事故等の相談が毎日のように電話がなってくるので、小さい頃は善次郎の事をパパというおじさんやと思っていました。準子の親は井上光蔵、まさゑさん、光蔵さんは住友本家の料理人でした。無動寺近くの山田町の店で準子が作るコロッケが大好評で作れば完売、当時、隣りに住む兄善幸の嫁の親和田美恵子さんと共に調理師免許を受験、二人とも見事合格、準子は喫茶店を始める夢を募らせます。昭和42年オープンする山の街マンモスセンター内に飲食店の募集を見て応募します。見事当選すると、喫茶店を越えて寿司屋を営むことになります。なんと善次郎も会社を辞めて一緒にすることにしたみたいです。と言うのも善次郎の管理するドライバーの中についこないだまで住吉の老舗寿司屋で親と商売していた板前が入って来たのをスカウトして始めました。京都の母の弟の職場仲間に辻調理師学校出身の青年も入り、徐々に商いが順調になっていきます。
そんな折、公団が店舗付き住宅の募集を始めました。20数倍の倍率をくぐり抜けて当選、昭和45年4月に今、兄善幸が営む、北五葉本店がオープン。同年12月に西鈴蘭台駅前店(当時は駅が出来ていなっかたので南五葉店)をオープン、君影店に次いでセントラルキッチンの役割を担う仕出しセンター、更に北区民センターにレストランを出店していきます。当時其々の店の板長達が、京都から遊びに来る光蔵さんが連れてくる友人の花街の置き屋の敷島屋の御爺さんが、酒を飲みながら、辻留は字がかけたさかいにな、えらかったな。等とわいわい言いながら料理のことをレクチャーしているのを聞いていましたが、善次郎があの人達が来るとワシらのいう事を若い板前さん達が聞かんようになるとこぼしていたのを思い出します。確かに店としての勢いもありましたが、テレビ番組も「細腕繁盛記」「前略おふくろさん」等料理に関するものも出せばヒットの時代でしたので、波に乗っていたのだと思います。山の街マンモスセンター店は、現在は当時の板長が経営しており名称のみ別店として繁盛しているようです。大学、社会人の7年間の間、西鈴蘭台における空白の時代が有ります。その間、鈴蘭台西高校が開校しその時に新聞のインタビューで西鈴蘭台駅前商店会会長として善次郎が受けています。確かにクレープ屋や賑わいを見せているようでしたが、何ぶん西鈴蘭台駅の乗降客数は現在の6倍以上、阪急、大阪地下鉄よりも兎に角神鉄に乗ることが一番しんどかったです。
先程、京都から遊びに来てくれたもう一人の祖父光蔵さん達が、食べもんは、塩付けて食べたら何でも旨いねん。塩付けてまずかったらほかのもんを付けるんやと言っていたのが心に残っています。あの唸るほどの技術を持った板長さん達が震え上がるほどの技を極めてきた翁達を観て、高明にはこの職業は無理やと思い、又、映画製作が面白くて、いつか自分でも撮りたいと思い入った会社ですので、辞めたくはありませんでした。高明の生き方の相反する言葉の一番は「極める」です。ここで来る日も来る日も何時終わるのかという位の下仕事の多さにも、稼業にしていく自信がありませんでした。今思うと、父善次郎の具合が悪くなったのは?病の様な気がしないでもないですが、平成14年に店を任されてから今年で30年になります。サウスポーで中学校時代の技術の授業の時間でラジオを作っても鳴らず、本箱を作っても平行四辺形にしかならない、誰からも不器用と呼ばれていた高明が続けてこれたのも、善幸を始め店で働いてくれた人達と付き合ってくれたお客様の御蔭やと本当に思っています。50年を越えてこうして営業できるのもこの街に住む人達の御蔭です。これからは支えていただいた皆様に恩返しを一つでもしたいと思っています。その為には、この西鈴蘭台が魅力的な街で居続ける事だと思います。この街だけで神戸市の人口が増えるような街になるように、少しでもお役に経ちたいと思っています。年に一度ギネスに挑戦するような企画や若者が日本一移り住みたい街だとか10年20年経ってもどの世代の人にも住みやすい街になることをいつも夢見ています。