Pochitto(ぽちっト)神戸 | ぽちトピックス(ふれ愛びと)
更新:2023.9.23
第39回---ぽちトピックス(ふれ愛びと)
- Q手話ができる当然の社会に
- A皆様、こんにちは。ぽちっト神戸で「私の常識はあなたの非常識」というコラムを担当させていただいている山本敏彦です。私は聴覚障害者(難聴者)です。私の聞こえの程度(右 105dB、左 63.8dB)を疑似体験してもらうならば、右耳の穴に人差し指など、ぴたっと入る指を奥まで突っ込み聞こえないようにしてください。そして、左耳は左掌でしっかりと耳を覆ってください。これで、右耳からほとんど聞こえず、左側からは声が小さく聴こえてくると思います。私は神戸市東灘区で育ち、御影小学校、御影中学校の卒業生です。私自身が耳が悪いと自分で認識したのはいつかは思い出せません。1995 年の阪神淡路大震災で亡くなった母親が「敏彦、ごめんな。お母ちゃんのせいでお前の耳が悪くなってごめんな。」という言葉を過去に聞いたことがありますが、地震で亡くなった母に、私の耳が悪くなった原因を聞く機会はありませんでした。学校を卒業して仕事についた後も「耳が悪い」ということを隠して生きてきました。補聴器もなく聞こえが悪いということも隠してきたので、「周りが聞こえているのに自分だけ、聴こえなくて誤解を受けた。」「タクシーの中で内緒話ができると笑われた。」「言った言わない、の水掛け論ではたいがい不利になる。」など、周囲の人との間に、いろいろなトラブルがありました。聞こえにくいのを人に知られたくなく、自分からは話しかけることもなく、宴会では人に話しかけられないようにひたすらお酒をおかわりして飲み続けていました。平成 22 年に社会保険労務士になった後、神戸市役所で初めて市民相談員として相談を受けた時のことです。7 組 10 名の方々から相談を受けたのですが、相談者の方々は下を向いて小さめの声で相談内容を話されました。唇を読むこともできず、私はほとんど聞こえませんでした。そのため、回答も出来ず、ペアの社会保険労務士の方にすべて答えていただきました。そのあと、補聴器を買う決心をしました。私自身が今のように聴覚障害者ということを公にしだしたのは、最近のことです。2021 年に手話サークルに家族とともに入りました。きちんと聴力を測ってもらい聴覚障害の障害者手帳を取得しました。10 年以上前から聴力は今と変わらなかったと思います。しかし、気持ちは大きく変わりました。「手話」というものを知ってからは「聞こえにくいということを公にしても良いんだ」と、気持ちが明るくなり、自分の耳が悪いことを人に知られても大丈夫になりました。手話に助けてもらった気持ちです。ですから、感謝の気持ちも込めて、「手話ができる 当然の社会に」していきたいと感じています。
↑手話のできる社会保険労務士 山本敏彦
↑まだ耳が悪いと感じなくても良い時代 昭和40年10月9日つまり生後10日目の写真
↑昭和41年9月4日、もうすぐ1歳という時に王子動物園で母と過ごした写真
↑昭和44年7月八幡神社で壊れたトラックで遊んでいた写真
↑昭和43年3月17日阪神パークでの写真
↑障がい者手帳
↑産経新聞に掲載
↑昭和44年の12月に幼稚園からもらった入園許可証