Pochitto(ぽちっト)神戸 | 地元のお話「神戸にあった難波」
更新:2020.11.23
第22回---地元のお話「神戸にあった難波」
兵庫に在った湖は、平安末期には難波一の谷と呼ばれ、一の谷合戦の主戦場になりました。では何故「難波」と呼ばれたかと言うと、先述した通り和田岬の内側には船を転覆させるような、縦糸と横糸が交わるような布地模様の波ができるためですが、「一の谷」とは、摂津国と播磨国の中では一番大きくて、一番美しい湖を表しています。
「月の名所」と言われる明石は、一の谷の周辺でした。紫式部はこの美しい土地を舞台として、物語を書いてみたいと書き始めたのが『源氏物語』です。
ただその前に、一の谷周辺の地勢を説明します。
須磨は浜須磨・東須磨・須磨の三所あるという記事を芭蕉が『笈の小文』に載せています。
その浜須磨とは新開地と、その西にある湊川(大開通8付近)の間にあって、湊川(一の谷)を越えると明石(現在の長田区)でした。
湊川を越える時の情景を紫式部は、「えも云はぬ入江の水など、絵に書かば、心の至り少からむ絵師は、書き及ぶまじと見ゆ」と記していますが、芭蕉は「蝸牛角ふ里わけよ須磨明石」と詠み、一の谷(兵庫の湖)の周囲の情景を絶賛しています。
では、長田に在った明石の話。
義経が壇ノ浦合戦で平家を滅ぼし、捕らえた者たちを都に送る時、播磨国明石浦に宿った時の『平家物語』文面、
名を得たる浦なれば、夜の更け往くままに月隅なく、秋の空にも劣らざりけり。女房達指し集いて忍び音にて泣きつつ、鼻打ちかみなんどしける中に、師典侍(そつのすけ)つくづくと眺め給いて。
眺むれば濡るる袂に 宿りけり
月よ雲井の物語せよ
是を聞給て、大納言典侍。
我らこそ明石の浦に
旅寝せめ
同じ水にも宿る月かな
この折に、左大臣藤原時平の讒言によって太宰府に向かう菅原道真が詠んだ歌が披露されました。
名にしほふ明石の浦の
月なれど
都よりなほ曇る袖かな
では、難波の内に明石があったと詠む歌を紹介しましょう。
『万葉集』に載る、奈良時代の門部王が、難波の岸辺(清盛塚の辺り)より海人の漁火を見て詠んだ歌。
見渡せば明石の浦に
燭(とも)す火の
ほにぞ出ぬる妹に恋らく
明石の海人の焚く漁火が増すにつれ、貴女を慕う想いも高まって来ました。
【筆者紹介】
梅村伸雄(うめむら・のぶお)
昭和7年生。昭和27年鳥羽商船高等学校卒業。現在兵庫歴史研究会顧問。郷土史研究に携わる。著書に「源義経一の谷合戦の謎」(小社刊)『兵庫歴研』年会誌に「神戸にあった『難波』」、を連載中。その他「須磨一の谷説に物申す」を著す。