Pochitto(ぽちっト)神戸 | 地元のお話「神戸にあった難波」
更新:2020.5.23
第20回---地元のお話「神戸にあった難波」
神武天皇の船団は、次の東流が現れるのを真野の入海で待ち、東流が現れると早速流れに乗り和田岬に向かいました。早い東流に乗ったため、見る間に和田岬に到着しました。天皇はその速さに驚き、和田岬の辺りを浪速の国と名付けました。
しかし、和田岬は天皇が来られる以前から難波碕と呼ばれていました。その理由は、和田岬の内側の海域は難儀な波が時々現れるので、難波浦と呼ばれていた処です。
もともと和田岬の内側は、西から北にかけての危険な風を避けるので、西に向かう船の潮待ちの良い場所でした。ただ問題は、堺湊方面から南東の風が吹くと、南東からの波は塩土山と呼ばれる山、阪神高速道路下に七宮神社がありますが、此処から清盛塚近くまで小高い山があって、その海側が断崖絶壁になっているために、岸壁に当たった波は角度を変えて戻って行きます。この来る波と帰る波とが交差する波模様は布の縦糸と横糸の布模様に見えるため、この波を白妙・荒妙・績麻と呼び数多くの和歌が詠まれました。百人一首で有名な、
住ノ江の岸による波
よるさえや夢の通ひ路
人目よくらむ
と詠はれた歌は、この打ち返しの波を詠んだ歌で、気の弱い御仁が彼女の処に遊びに来たのに人目を憚り、住吉の波のように直ぐに帰ってしまう様子を詠んだ歌です。
この波模様は三津と呼ばれた清盛塚辺りでの眺めが面白く見飽きることのない波ですが、船にとっては船が転覆させられる難儀な波でした。
平清盛は宋の船を福原の地に連れて来たいので、断崖絶壁の手前に経ヶ島を築き、経ヶ島と塩土山との間に、大きな船泊り大輪田泊を造りました。後に一の谷合戦で平家一門の悲惨な修羅場になるとは、知るよしも無かったでしょう。
この大輪田泊は平安時代に造られた船泊ですが、奈良時代の大輪田の泊は、現在の大開から清盛塚の西に連なる100ヘクタールに及ぶ大きな湖の一角で、此処が遣唐使船や防人たちの乗る船泊で、難波津または難波潟と呼ばれていました。
彼らはこの泊りで歌を詠み、兵庫の地を散策したことでしょう。第七回遣唐使として唐の国に渡った山上憶良が帰国に際して次の歌を詠んでいます。
いざ子ども早く大和へ
大伴の三津の浜松
待ち恋ひぬらむ
塩土山の松は、遣唐使達を送り迎える思い出の松でした。
【筆者紹介】
梅村伸雄(うめむら・のぶお)
昭和7年生。昭和27年鳥羽商船高等学校卒業。現在兵庫歴史研究会顧問。郷土史研究に携わる。著書に「源義経一の谷合戦の謎」(小社刊)『兵庫歴研』年会誌に「神戸にあった『難波』」、を連載中。その他「須磨一の谷説に物申す」を著す。