Pochitto(ぽちっト)神戸 | 地元のお話「神戸にあった難波」
更新:2023.5.23
第35回---地元のお話「神戸にあった難波」
たの原漕ぎ出でて見れば
久方の雲ゐにまがふ
沖つ白波
(通訳)大海原に舟を漕ぎ出して見渡すと、白い雲かと見違えるような沖の白波が立っています。
数十年間船乗りとして白波を見ていますが、歌のような情景は全く見ていません。この歌は難解です。ただ詠んだ人が摂政関白藤原忠実の子、忠通(1097~1164)で、平清盛が経ヶ島を築く以前の海の情景を知っている方です。
では今一つ、難解と言われた歌を紹介します。
柿本人麻呂の詠んだ歌。
三津埼波をかしこみ
隠江の舟なる君は
野嶋にと宣る
三津埼にやって来る大波と飛沫を避けて隠江の奥に船を泊めたが、船に居られる大君は、野嶋へ行こうと言われた。つまり、三津の崎を越えて波と飛沫が難波潟まで入って来るので、珍しい難波の交差する波模様が見られない、和田岬に在る野島に行けば、飛沫にもかからずに波模様が見られるぞ!と言う、大君の好奇心を詠んだ歌ですが、この大君は慶雲3年(706)9月25日、和田の州にある御所に御幸された文武天皇です。
歌に登場する「野島」は、和田岬の先端に在った島で、仁和3年(887)の大地震で、没しています。
この歌の舞台は、南東からやって来る波が、断崖絶壁の塩土山(七宮神社の南岸)で打ち返され、北寄りの波となって、南東からの波と交差します。この波が現れると、和田岬の内側に停泊していた舟が転覆させられるので、宋から来る船の安全を図って築かせたのが経ヶ島です。
この交差する波で船が難破するので、和田の州の周辺は難波と呼ばれ、大坂が難波と呼ばれる前から和田の州が難波の地と呼ばれていました。
ぽちっト神戸29号で幾つか歌を紹介しましたように、船乗りにとっては危険で難儀な波も歌人にとっては興味をそそられる波で、数多くの歌が詠まれています。
文頭で紹介した歌は、文武天皇が野島に行って、「この波を見よう」と言った情景を、藤原忠通が和田岬まで舟で行き、そこから見た情景を詠んだ歌です。
波頭から飛沫が飛ぶのは、波が浅瀬に来て、波が高くなる時に飛沫が飛び、浪花とも呼ばれるのですが、波が交差する時にもその波頭から飛沫が飛びます。
忠通卿が見た情景は、かなり遠くから飛沫が飛び、辺り一面が雲かと見違う程の白波が立ち、塩土山が雲に覆われたように感じられたのです。
お正月のカルタ取りなどには、『小倉百人一首』の中には、神戸の歌が多いので、神戸のいにしえの情景を味わって下さい。
【筆者紹介】
梅村伸雄(うめむら・のぶお)
昭和7年生。昭和27年鳥羽商船高等学校卒業。現在兵庫歴史研究会顧問。郷土史研究に携わる。著書に「源義経一の谷合戦の謎」(小社刊)『兵庫歴研』年会誌に「神戸にあった『難波』」、を連載中。その他「須磨一の谷説に物申す」を著す。