Pochitto(ぽちっト)神戸 | 地元のお話「神戸にあった難波」
更新:2017.9.23
第4回---地元のお話「神戸にあった難波」
【鵯越の出来ごと】
摂津志云。
高尾嶺、在藍那村上方、山腹有径、日鵯越、傍有清泉湧出、行人止渇之処、寿永中源義経、取路於此、抜一谷城、即此。摂津史の語るところによれば、高尾山は藍那村の上方にあり、山腹に鵯越と呼ばれる道が在り、道の傍らには清泉が湧き出て、旅人が休息し、渇きを癒す所となっている。寿永年間、源義経が此の道を辿り、一の谷城を陥れたのは。間違い無く此の道である。
六日戌亥刻(午後九時頃)、高尾山に到着した義経一行は、その丘の疎林の中に溶け込む様に身を隠し、清泉で喉を潤した後、それぞれ焚火を焚いて暫しの休息に入ったが、隠密裡に辿る竣嶮な悪路の連続と、連夜の行軍には、さすがの坂東武者もこらえようもなく、火の周りで体を寄せ合いながら、暖をとりつつ泥の様な眠りに誘い込まれていった。
この疲れた一行の中から、義経は数名の郎党を連れて高尾山山頂に立ち、眼下に見える平家の本陣大輪田泊と本陣を守る無数の篝火を見て、義経は高らかに笑いながら不思議な言葉を発した。
渚々(なぎさなぎさ)の篝火、(かがりび)海人(あま)の苫屋(とまや)の藻塩火(もしをび)かと思いける。 続いて、感嘆のあまり、兵杖(へいじょう)の具足(ぐそく)をば態(わざ)ととらせぬそよ。
と告げたのである。つまり、平家が展開した火の海は、海人が藻を焼いて塩を取る時の藻塩火である、と呟き、戦いの武具は必要ないと言ったのである。
これを聞いた義経に同行した一行、驚いたに違いない。なにしろ明朝には戦う無数の軍勢を前にして、武者振るいどころか笑ったのである。この義経の笑いを解くには和歌の世界を覗いてみなければならない。平家が陣を布いた和田の州は、海女が集まって藻塩を拾い集めていた浜辺で、聖武天皇のお供をしていた笠朝臣金村が見に行きたいと思ったが、天皇のお供なので会いに行けないという歌を詠んでいる。 それを思い出した義経は、金村が会えなかった海人たちに、明日会いに行けると云う意味で笑ったのであり、海女が相手なので武具は必要ないと笑ったのである。義経の豪胆さを示す情景が高尾山の山頂に残っている。
【筆者紹介】
梅村伸雄(うめむら・のぶお)
昭和7年生。昭和27年鳥羽商船高等学校卒業。現在兵庫歴史研究会顧問。郷土史研究に携わる。著書に「源義経一の谷合戦の謎」(小社刊)『兵庫歴研』年会誌に「神戸にあった『難波』」、を連載中。その他「須磨一の谷説に物申す」を著す。