Pochitto(ぽちっト)神戸 | 地元のお話「神戸にあった難波」
更新:2020.3.23
第19回---地元のお話「神戸にあった難波」
皆さん、難波と言えば大阪と考えていますね。
ところが一の谷合戦を調べている内に、その主戦場が難波一の谷と呼ばれていたところから、その難波は何処を指していたのかを探っている内に、難波と呼ばれた土地は神戸であったことが分かりましたので、その詳細をお話します。
先ず神戸が難波と呼ぶ和歌を紹介しましょう。
秋はけさ生田の
杜も過ぎぬらん
難波のあしに風を残して
右は鎌倉期に四天王寺の別当を務めた慈鎮の歌で、木枯らし一番が生田の森を吹き過ぎて行った情景を詠み、冬の訪れを告げています。冬一番の風とは西風です。従って難波の葦は生田の森の西にあって、そこには難波潟と呼ばれ葦が繁茂する湖があり、平安末期には一の谷と呼ばれ、源平の一大決戦場になりました。
では、神戸はいつ頃から難波と呼ばれていたかを説明致しましょう。
歴史に最初に登場するのは神武東征で、〔紀〕には、神武戊午の年、春2月11日に、天皇の軍はついに東に向かった。舳艪相つぎ、まさに難波碕に着こうとするとき、速い潮流があって大変速く着いた。よって名づけて浪速国とした。また浪花ともいう。今難波ともいうのは訛ったものである。
現在、問題無く通行している明石海峡も、昔は通過するのに大変苦労をしていました。先ず海峡を通過する場合には、月の位置を見ます。月が水平線にある時以後には流れが東に向かい、真上に在る時以後は西に向かうので、海峡を通過する時には月の位置、天候、風の向きにより、海峡通過の時刻を決めて船出をします。
この様な現地の事情を知らないままに海峡に入り、東に向かえば東流に行く手を阻まれる上に、逃げ込む湊がないまま夜になれば、遭難の憂き目に遭います。従いまして明石海峡を通過するには水先人が必要です。それが〔紀〕に登場する地元の「渡の神」と思われます。
神武東征の時には、その地元の神が案内をしたことでしょう。江井ケ島港から和田岬まで約30㎞、神武率いる大船団が一気に通過することは潮の流れを考えると無理ですが、良いことに和田岬の4㎞西に真野の入海があります。現在、苅藻川になっていますが、そこは大きな湾になっているため、神武天皇も此処で一休みしてから、次の東流に乗って和田岬に向かいました。
【筆者紹介】
梅村伸雄(うめむら・のぶお)
昭和7年生。昭和27年鳥羽商船高等学校卒業。現在兵庫歴史研究会顧問。郷土史研究に携わる。著書に「源義経一の谷合戦の謎」(小社刊)『兵庫歴研』年会誌に「神戸にあった『難波』」、を連載中。その他「須磨一の谷説に物申す」を著す。