Pochitto(ぽちっト)神戸 | 地元のお話「神戸にあった難波」
更新:2017.5.23
第2回---地元のお話「神戸にあった難波」
【鵯越の名前の由来(1)】
鵯越といえば、市営の鵯越墓園が有名ですが、元を糺せば歴史上大きな意味合いを持つ名前です。俚言には、「谷狭くして大鳥羽をのす能はず、鵯位いの小鳥ならでは通れぬ処なれば鵯越と名付けられた」と記し、また 「昔、億計弘計の二皇子が、明石の屯倉の首、忍海部の細目の家僮となられ、流離辛酸を嘗められた時、兵庫の市へ薪を売りに行かれると、いつも鵯が道の先々へ飛んで案内を申したので鵯越とも言うと」とあります。
では『平家物語』には、「ひょうどりごえ」の本来の意味を暗示する、次の記事があります。
此山を鵯越と云はいかにと御尋有。翁申て云く伝承候は、天智天皇摂津国なかへの西宮にすませおわしましし時、あまた小鳥を被召けるに、武庫山満願寺の峯にて鵯を取り給う。御使は大友の公家と言ける人也。鵯をさげ此坂を越たりけるに依て鵯越と名付く。
とあります。
この時の時代背景は、大化の改新詔を出した 翌年のこと、孝徳天皇は武庫の行宮(和田州)に行幸され、有馬温泉に行かれました。この時、後に天智天皇になられた皇子が、兵庫の権力者である大伴氏を使い、摂播両国の国境を定める標識を設置しながら越えたために、「標取り越え」と名付けられ、後に「鵯越」と訛り、今日に至っています。
『百二十句平家物語』には、「一の谷のうしろ、摂津の国と播磨のさかひなる鵯越」と記されているように、「鵯越」は国境であります。この国境の基点は、和田岬に流れ出る湊川で、湊川は清盛塚辺りで大きな湖になり、JR兵庫駅の北側、水木通付近まで広がります。この湖は赤石櫛淵とも云われ、畿内の西端になります。今日、須磨に赤石櫛淵があると云う説は誤りです。この国境を決めた時から律令国家が出来上がり、後に義経が国境の鵯越を通って平家を滅ぼしましたが、これが武家政治に移行する、切っ掛けとなったように、歴史の転換点に鵯越が登場しました。
【筆者紹介】
梅村伸雄(うめむら・のぶお)
昭和7年生。昭和27年鳥羽商船高等学校卒業。現在兵庫歴史研究会顧問。郷土史研究に携わる。著書に「源義経一の谷合戦の謎」(小社刊)『兵庫歴研』年会誌に「神戸にあった『難波』」、を連載中。その他「須磨一の谷説に物申す」を著す。