Pochitto(ぽちっト)神戸 | 地元のお話「神戸にあった難波」
更新:2018.1.23
第6回---地元のお話「神戸にあった難波」
【鵯越の出来ごと (3)】
義経は鵯越で二人の子供を連れた興延の父親に出会いました。兄は熊王と呼ぶ十六歳の少年と弟の一法師と呼ぶ十三歳の子供です。勿論、興延の弟達です。出所を隠すために適当な名前を付けたものと思います。
この少年二人に重要な任務をさせるために、二人を元服させ、兄を鷲尾三郎義久の名を与えました。義経の義と久我家の久を取りました。弟は鷲尾四郎経久です。
二人の任務は、長兄の興延の情報に基づき、義経が考え出した戦略を実行するための道案内役です。攻撃目標は、平家一門が集結している大輪田泊の北にある夢野の丘です。鹿道を辿りながら、夢野の丘を眼下に望む鉢伏の山頂に馬達者七十騎を案内したのは、三郎義久です。 四郎経久は、岡崎四郎率いる陽動作戦を遂行する部隊の道案内です。目的の一つは、三郎が案内する奇襲部隊が、鵯越の末端鉢伏の山頂に現れた時、高取山の峠から丸見えになるため、峠に陣取る平家の目を他所に向けさせる必要と、夢野に陣取る平家の武者に、危険な崖を下りている武者達の姿を気付かせないため、峠の激戦に目を向けさせておく必要がありました。そのための道案内であります。 長兄の興延は、畠山重忠と共に、村の南にある小高い山(現在の城ケ丘公園)に仮城をつくるために、村人と共に城つくりをしました。義経が城を構えて西から攻めると、平家に思わせるためです。
『平家物語』に、剛力な重忠は、逆落としの時に、馬の足を庇い、馬を背負って下ったとありますが、これも義経に協力した村人が、播磨の守護職になった梶原景時に、苛められてはいけないと、無難な物語に仕上げたのです。
地元の古文書には、
城ケ岡山 平家の一つ一の谷落城の時、源家の勢畑ケ山ノ重忠也。智略にて一夜の間に城を築しに見せ候場也。是より鉄拐ヶ峰(鵯越の末端鉢伏)迄に高山なし。淡路山赤石(和田岬周辺)はりま灘(和田岬の沖)までも一目に見へ渡る。「鵯越峯續 河之籏揃」 委ク御物語抔有テ御約束被遊、武蔵坊弁慶亀井六郎抔諸共熊丸宅ニ於ゐて一七日ノ御逗留御酒宴抔有而……
詳しく、物語などがあり、お約束され、武蔵坊弁慶亀井六郎などが熊丸宅に十七日間逗留、ご酒宴などがあった。との記事があります。武蔵坊弁慶亀井六郎他、義経の郎党達、話に花を咲かせたことでしょう。
【筆者紹介】
梅村伸雄(うめむら・のぶお)
昭和7年生。昭和27年鳥羽商船高等学校卒業。現在兵庫歴史研究会顧問。郷土史研究に携わる。著書に「源義経一の谷合戦の謎」(小社刊)『兵庫歴研』年会誌に「神戸にあった『難波』」、を連載中。その他「須磨一の谷説に物申す」を著す。