Pochitto(ぽちっト)神戸 | 地元のお話「神戸にあった難波」
更新:2025.3.23
第45回---地元のお話「神戸にあった難波」
私は元船乗りです。タヒチから名古屋港に向かっている時でした。私の当直時間に潮岬の灯台の明りが見える筈なので、皆で灯りが見えた瞬間を賭けました。船が紀伊半島に近付くに従い、光芒が夜空を照らし、それが段々と明るくなり、遂にパット灯りが眼に飛び込んで来ました。その時間を見事に当てたのが、五島出身田舎風の船長でした。
後でその技を教えてもらった処、「視水平距離表」を見せてもらいました。この表は山の高さによって見える距離を示す表で、これが歴史の裏付け資料として、私に色々と情報を提供してくれました。飛鳥時代のことです。歌聖と呼ばれる柿本人麻呂が次の歌を詠んでいます。『万葉集』
天籬る(あまざかる)
鄙の長道ゆ 恋ひ来れば
明石の門より
家のあたり見ゆ
この歌は、都を離れ長い旅路を辿っていると、明石の湊より我が家の辺りが見えるぞ!と詠む喜びの一句です。
西名阪を天理に向かって走っていると、法隆寺辺りから右前に飛鳥時代の歌人、人麻呂の家の近くに在る巻向山が見えます。この山が見える範囲を「視水平距離表」で調べると、二上山と生駒山の間に在る台地(香芝S・A)の陰に隠れていた巻向山が、ポーアイを過ぎた辺りから頭を覗かせ、和田岬でハッキリと姿を現します。つまり、明石の門とは、和田の州に在った船泊、大輪田の泊であり、難波津の事です。従って、和田の州は明石と呼ばれる土地で、人麻呂は和田の州が好みの地であり、次の歌を詠んでいます。
ほのぼのと 明石の浦の
朝霧に 島隠れて行く
舟をしぞ思ふ
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早春の高気圧に覆われた和田の州は冷え渡り、湿気を持った冷たい空気が大地を覆っています。その上に太陽の陽射で温かくなった空気が乗るので、気温の逆転現象が起こり、美しい線状の霧が現れます。この霧が浜辺の松を飾る中を、友の舟が都に向かって去って行く情景を詠んだ歌で、この歌によって和歌の神様と呼ばれたようです。
次は鎌倉期の歌人藤原俊成が詠んだ「旅泊聞鹿」です。
舟とむる 明石の月の
有明に 浦よりをちの
さを鹿のこゑ
夜明け前の明石の名月を見ようと舟を泊めていると、仁徳天皇と八田の皇女が毎夜楽しんだ鹿の声が聞こえて来たぞ、と名月と鹿の声を楽しんだ、二重の喜びを自慢した歌です。俊成は定家の父親で、歌壇の第一人者であり、和田の州を特に愛した人でした。俊成一行が会下山に在る聖徳太子の墓を詣でた時の歌は、
雪にだに 花の盛りの
御笠山 まことの春は
いかばかりかは
雪でさえ花の盛りに見える会下山です。春であったならどれ程美しいものやら。
【筆者紹介】
梅村伸雄(うめむら・のぶお)
昭和7年生。昭和27年鳥羽商船高等学校卒業。現在兵庫歴史研究会顧問。郷土史研究に携わる。著書に「源義経一の谷合戦の謎」(小社刊)『兵庫歴研』年会誌に「神戸にあった『難波』」、を連載中。その他「須磨一の谷説に物申す」を著す。