Pochitto(ぽちっト)神戸 | 地元のお話「神戸にあった難波」
更新:2023.7.23
第36回---地元のお話「神戸にあった難波」
神戸で詠まれた「小倉百人一首」を語る上で、知って欲しい地名「名児浜」について、話をさせて頂きます。晩年の定家が「名所」と題して、いにしえの悲しい出来事を詠んでいます。
なごの海人(あま)の潜 (かづ)く白玉(しらたま)
たまさかに出でて帰らぬ
闇路ともがな
名児の海人が潜って奇跡的に拾い上げた白玉であったが、海人にとっては生きて帰ることのない闇路になってしまった、と言う意味です。
〔紀〕に「阿波の大真珠」と名付けた事件があります。
允恭(いんぎょう)天皇の御代、天皇は淡路島(兵庫の湖)に猟に行かれたが、大鹿・猿・猪など獲物は沢山いるのに、一日中狩りをしたが一匹も獲れなかった。これを不思議に思い占いをすると、「明石の海底に真珠がある。その珠を供え祀れば獲物が得られるだろう」とのお告げが出た。そこで近隣の海人を集めて探させたが、海が深くて底まで潜れない。この時に呼ばれたのが、阿波国の長邑(ながむら)の潜りの名人海士男(あまお)狭磯(さじ)である。彼は60尋の海底に潜り大鮑(おおあわび)を抱えて浮き上がったが、そのまま船端で息絶えてしまった。この大鮑の腹から出た桃の実ほどの真珠を神に供えると、多くの獲物を得ることができた。そこで、男狭磯の死を惜しみ、墓をつくり手厚く葬った、と〔紀〕に書かれています。 では、名児の浜が何処にあるか、第88代後嵯峨院が詠まれた歌が、その場所を教えています。
葛城の峰より上る
春の日に名児の浜辺の
氷とくらん
つまり、立春の日に葛城山から登る太陽の光は、神々が宿る名児の浜の氷を溶かして下さる、と云う意味です。
立春の日(2月24日)に葛城山から登る太陽の方位角は、天文を知る人にとっては簡単に計算ができます。
07時12分、葛城山の北側麓より顔を出した太陽は、16分後葛城山の真上に至ります。その時の方位角はS68・2Eです。従って、葛城山からS68・2Eの線を西に延ばすと、その線は和田の州に至ります。つまり、和田の州の東岸が名児の浜であり、その内側にある兵庫の湖には八十島があって、島々には神々の霊が宿り、その神々が冬の間、氷に閉ざされていたのが立春の蘇った暖かさに神々が喜ばれている情景を詠んだ歌です。
神戸の歴史を語る上で間違い易いのは、兵庫の湖に点在する八十島を淡島・和田の州を淡州などと記されているので、明石海峡の南に在る淡路島と間違いをすることです。昔、会下山を「宇奈五丘」と呼びましたが、これを「偉大な名児の丘」と読むと、彼の墓の所在地と考えられます。
【筆者紹介】
梅村伸雄(うめむら・のぶお)
昭和7年生。昭和27年鳥羽商船高等学校卒業。現在兵庫歴史研究会顧問。郷土史研究に携わる。著書に「源義経一の谷合戦の謎」(小社刊)『兵庫歴研』年会誌に「神戸にあった『難波』」、を連載中。その他「須磨一の谷説に物申す」を著す。