Pochitto(ぽちっト)神戸 | 地元のお話「神戸にあった難波」
更新:2024.1.23
第39回---地元のお話「神戸にあった難波」
ゆらの門に在った赤石は、初め烏原貯水池の畔にありましたが、大昔に起った大洪水の折に、古湊川の激流に押し流され、「赤石の林の潮」と『播磨国風土記』記載の地に流れ着き、赤石郡と郡の名を与えられました。また、赤石の姿が猪の似ているところから、周辺地域を猪名郡と呼び、湖の岸辺に在る処から、湖を猪名の湖とも呼びました。
この猪に似た赤い石を追って行くと、記には次の話が載っています。
仲哀天皇の跡目相続の問題です。つまり、仲哀天皇には大中姫を妃として、皇子には?坂皇子(かごさかのみこ)と忍熊皇子(おしくまのみこ)がいました。このお二人は、新羅遠征より戻って来る神功皇后は、己の子(応神天皇)を次の天皇にするであろう。吾らはそれを阻止しようと、仲哀天皇の祖父母の地である播磨の赤石郡(明石=和田の州)に陵を造ると言う口述で軍勢を集めました。戦いの戦勝祈願として、菟餓野(夢野)で祈狩(うけひがり)をした処、赤い猪が?坂皇子を喰い殺したとあります。
此処で問題なのは、赤い猪はいませんが、猪に似た赤石が湖の河口(大開通付近)に沈澱していた処から、この赤石を仲哀天皇の陵墓の一つに利用しようと、筏を編んで赤石を運び、陵墓予定地(薬仙寺付近)に陸揚げの最中に大事故が発生、赤石が?坂王を死に至らしめたものと解釈できます。取り残された赤石は、清盛塚の手前にある「ゆらの門」に放置され、猪の姿は鹿の姿と見なされ、大伴家持が詠んだ「名児の海で鹿が鳴いている」の歌になったと考えられます。
赤石が取り残された清盛塚の西には、遣唐使らが上陸する御津の泊が在って、船と陸とを結んでいました。
この御津の泊で筑紫の国に向かう笠麻呂と云う役人が、船待ちしている時に詠んだ、
臣の女(おみのめ)の櫛笥に乗れる鏡なす御津の浜辺に
と詠む長歌の詠み出しの歌に、御津の浜辺が景行天皇の后である印南別嬢(いなみのわきいらつめ)が残した櫛笥である、と詠んでいます。この櫛笥模様の浜辺と、その浜辺近くの「ゆらの門」に鎮座している赤石を以て、孝徳天皇は大化改新詔に、「赤石櫛淵」と記し、特別行政区域の西端を記しています。
現在、摂播両国の国境は、須磨の鉢伏山の麓に在る堺川となっています。然し、この国境は戦国末期の太閤検地が基と思われ、奈良・平安・鎌倉時代の国境は、此処、清盛塚からJR兵庫駅付近にかけてが、当時の国境であり、「摂播両国の国境難波一の谷」と呼ばれる一の谷の主戦場は、清盛塚からJR兵庫駅付近にかけての合戦です。
【筆者紹介】
梅村伸雄(うめむら・のぶお)
昭和7年生。昭和27年鳥羽商船高等学校卒業。現在兵庫歴史研究会顧問。郷土史研究に携わる。著書に「源義経一の谷合戦の謎」(小社刊)『兵庫歴研』年会誌に「神戸にあった『難波』」、を連載中。その他「須磨一の谷説に物申す」を著す。