Pochitto(ぽちっト)神戸 | 地元のお話「神戸にあった難波」
更新:2024.7.23
第41回---地元のお話「神戸にあった難波」
前号で和田岬を難波碕と呼び、生田・平野・長田を「難波」と呼んだ理由をお話します。 先ず難波とは、簡単に言えば、難儀な波が現れるところからつけられた名前です。つまり、二つの波が交差するため、この波に遭うと船は転覆させられます。舟は一方向の波には耐えられますが、二方向から波が来ると転覆させられます。平清盛が経ヶ島を築いた理由は、和田岬の北側には危険な二方向からの波が来るから、この波の対策として島を築いた次第です。
当時、この波の出来るのは、和田岬の内側には「大物」と呼ばれる竜神が棲むために大物の浜難波浦と呼ばれていましたが、この危険な波の出来る理由は、辰巳(南東)の風が吹き、波が南東から来ると塩土山の深い断崖の岩場で打ち返されて北寄りの波が出来ます。この北からの波と南東からの波が交差して舟を転覆させる危険な波になります。
船乗りにとっては危険な波も、見る者にとっては見飽きることの無い面白い波であり、数多くの歌が詠まれています。
昔JR兵庫駅付近には、神功皇后が津の国で最初に祀った住吉神社が在り、この神社を菟原住吉と呼んでいました。
現在、大阪に住吉大社が在りますが、この大社は兵庫駅に在った菟原住吉の分霊を祀った社です。
現在、七宮神社が在る処は、塩土山または住吉の松嶺と呼ばれる海際が断崖深淵の岸になっていて、この岸辺が難波の波を造っていましたが、歌人にとっては絶好の歌のネタになっていました。
建久九年(1198)夏、藤原定家が詠んだ歌。
松かげや 岸による浪
よる許 しばしぞ涼む
住吉のはま
平安後期~鎌倉時代の神職、歌人。祝部成仲の歌。
住吉と 聞くに心は
留まるを 如何なる波の
立ち返るらん
平安後期の歌人藤原為忠の歌。
名に高き 難波の浪の
立帰り 幾度みつと
人に語らん
平安中期の歌人藤原清正の歌。
あるをんなに
住吉の 岸をりかへし
返しても立ち寄らまくの
欲しき君かな
平安中期の歌人藤原元真の歌。
忘れ貝 よせもやすると
住吉の 岸うつ浪
かぞへつるかな
認知症の貝の歌です。平安後期~鎌倉期の歌人、権中納言長方
写すとも 筆もおよばじ
淡路なる 絵島の磯に
かくるしら浪
歌の舞台淡路は和田岬、絵島は和田岬の先端に在った島。平安~鎌倉天台宗の僧慈円、海辺歳暮
今日寄せて
明日たち返る歳波は<>br />
和歌の浦回に
かかるなりけり
【筆者紹介】
梅村伸雄(うめむら・のぶお)
昭和7年生。昭和27年鳥羽商船高等学校卒業。現在兵庫歴史研究会顧問。郷土史研究に携わる。著書に「源義経一の谷合戦の謎」(小社刊)『兵庫歴研』年会誌に「神戸にあった『難波』」、を連載中。その他「須磨一の谷説に物申す」を著す。