Pochitto(ぽちっト)神戸 | 地元のお話「神戸にあった難波」
更新:2018.9.23
第10回---地元のお話「神戸にあった難波」
【鵯越の出来ごと (7)】
老いた馬は崖の下り方を知っている、と聞いた弁慶は、早速28歳の葦毛と30歳の鹿毛を探し出し、葦毛には白い鞍を鹿毛には赤い鞍を置き、それぞれ源平の笠印として、馬の背より追い落としました。
ところがどうしたことか、平家の笠印を付けた鹿毛は坂の途中で転倒、葦毛は尻足を敷き、前足を延ばして見事に下の段に下り立ち、馬の背で見守っている武者達に向かい、元気に嘶いたのです。
これを見た武者達、この戦に勝ったとばかりに歓声を上げたものの、誰一人として真っ先に下りようともしません。鹿毛の転倒振りが余りにも見難かったので、己もあのような失態をしては恥とばかりに二の足を踏んだのです。
この時、佐原十郎義連「人の乗らん馬でも下り申した、義連落として見参に入らん」とて、旗一流差し上げ、真っ逆さまに滑り下りました。
高さ15メートル程下り、下の段に下り立って、次の崖を見下ろした義連はびっくりした。
次の崖は高さ15メートル程ある上に33度程の急勾配(小学校の校庭にある滑り台の勾配)の岩場で、確かな足場とて見当たりません。さすがの義連も無理と思ったのでしょう。
味方に向かって「此れより下へはどう見ても下りられません。思い止り下され」と云っている内に、馬の背にいた武者達が続々と下りて来て、次の崖を下りるのは無理であるが、と云って引き返すのも出来ない崖である、 と戸惑っていると、「引き返すのは無理、下に落とせば死ぬのなら、下での死は敵陣の前での死である、落とせ!」の声が聞こえた。すると十郎義連は、「三浦に手朝夕狩りするに、これより険しき所をも落としておる。 いざ者ども」と申して、一門引き連れ崖を下りだした。
和田小太郎義盛、同次郎義茂、同三郎宗実、同四郎義胤、葦名太郎清際、多々良五郎義治、郎党には、物部橘六、アマ太郎、三浦藤平、佐野平太、これらを始めとして、手綱掻ひ繰り、 鎧踏み張り、目を塞ぎ、馬に任せて落とすと、これを見た義経、「良く見たように落とせや若党」と申して先に落とすと、躊躇していた70騎もこれに続き、一騎も損なわずに無事山間に下りました。
今回の西日本豪雨の際、ひよどりトンネルの南出口の上方、逆落としの崖に、溜まりに溜まった土砂が、義経一行と同様に坂落としをして、道路の通行を遮断しました。
義経たちの勇気を語る崖が、史実を語る注目すべき崖であることを、日本の指導者に対し、一生懸命訴えているのではないでしょうか。
【筆者紹介】
梅村伸雄(うめむら・のぶお)
昭和7年生。昭和27年鳥羽商船高等学校卒業。現在兵庫歴史研究会顧問。郷土史研究に携わる。著書に「源義経一の谷合戦の謎」(小社刊)『兵庫歴研』年会誌に「神戸にあった『難波』」、を連載中。その他「須磨一の谷説に物申す」を著す。