Pochitto(ぽちっト)神戸 | 地元のお話「神戸にあった難波」
更新:2021.7.23
第25回---地元のお話「神戸にあった難波」
明石の語源は赤石です。この赤石の地は、大化の改新詔に記された畿内の西端「赤石の櫛淵」でもあります。この赤石櫛淵(兵庫の湖)から北に向かうと、摂津と播磨の国境である鵯越になりますが、赤石櫛淵と鵯越の中間には国境を示す三草山があって、国境を護る楯と鉾そして鏑矢が祀られ、この山には畿内に侵入する外敵を見張る大山守が居ました。この山の麓、大開辺りに湊川の河口が在って、その先が兵庫の湖、即ち赤石櫛渕になっていました。
この湊川の河口には烏原川から流れて来た真っ赤な石が鎮座し、赤石の潮(みなと)と呼ばれる兵庫への上陸地点になっていました。その赤石は猪に似た石なので、この周辺は猪名県(いなのあがた)と呼ばれ、兵庫の湖も猪名の湖とも呼ばれていました。このように兵庫の湖は時の人により、また地元の人によって様々な呼び名で呼ばれていました。大輪田泊・猪名湖・大蔵谷・一の谷・務古水門・淳中倉長峡・難波潟・難波津などです。
従いまして、現在の地名で昔の歴史を語るのは誤りです。
では明石の語源である赤石についてお話しましょう。
現在、清盛塚の対岸に阿弥陀寺が在りますが、その庭の池の中に水を掛けると赤くなる石があります。石は鹿が伏せた姿に似ていますが、寺の伝承では、湊川合戦で敗れた楠木正成の首実験をした石で、正成の血で赤くなったとの伝承があります。然し、その石について『舊事本紀』には、「赤石国とあり、応神天皇の御代に国造を定められ、宝暦十年(一七六〇)まで凡そ千四百八十余年也。此所の海中の石赤く朱の如し、依て郡名とす。今猶石赤くして他郡に異なり。」とありますが、『播州名所巡覧には、「汀を去事七八間、大さ四五尺四方也。其色甚赤し、陸より見る事能はず。船にのり出で見るべし。三月三日には渚より見るとて群集す。汐浅ければ色の赤きが斜めに見ゆる也。」とあって、この石は海底に鎮座し、大勢の人に好奇な目で眺められていました。この石を見た大伴の家持は、
名児の海を海人漕ぎ来れば
海なかに鹿も鳴くなる哀れその鹿子
この石には、恋人に会いに行く男が鹿に乗り、海を渡っている時、漁師が鹿を射殺したため、男も亡くなった話が添えられています。
【筆者紹介】
梅村伸雄(うめむら・のぶお)
昭和7年生。昭和27年鳥羽商船高等学校卒業。現在兵庫歴史研究会顧問。郷土史研究に携わる。著書に「源義経一の谷合戦の謎」(小社刊)『兵庫歴研』年会誌に「神戸にあった『難波』」、を連載中。その他「須磨一の谷説に物申す」を著す。