Pochitto(ぽちっト)神戸 | 地元のお話「神戸にあった難波」
更新:2017.3.20
第1回---地元のお話「神戸にあった難波」
【藍那古道を通った義経一行(1)】
神戸で行われた一の谷合戦の後、都に帰って来た誇らしげな関東武者達に対して、興味津々たる公家達の取材合戦が行われました。その中には、八百年前の地元の情景を見事に表した文があります。先ずは、それを紹介しましょう。
頃は二月の六日の事なれば、宵ながら傾く月を打ち守り、四方を正して行くほどに、青山は苔深くして、残りの雪は始め花かと誤またれ、岩間の氷解けざれば、 細谷川瀬音絶え、白雲高く聳えて、下りむとすれば谷深し。深山道絶えて、杉の雪まで消えやらず、岸の細道幽なり。木々の梢も茂ければ、友迷わせる所もあり。 ただこと問う者とては、遠山に叫ぶ猿の声、谷鶯声なければ、まだ冬かと疑わる。松根に仍って腰を擦らねども、千年の翠り手に満ちてり。梅花を折りて頭に挿さねども、 二月の雪衣に落月も高嶺に隠れぬれば、山深くして道見えず。心ばかりは逸れども、夢に道行く心地して、馬に任せて打つ程に、敵の城の後ろなる鵯越を登りにける。
右の文は新暦で3月26日、旧暦で2月6日なので、月と太陽が 度ほどの角度でした。日暮れに山田の鷲尾の伜に案内をされ、藍那古道を辿っている時には、月も山陰に隠れたことでしょう。 山田から藍那古道を通り、藍那を経て星和台の南端までの情景が、このように平家物語に記述されています。
取材記者となった公家は、聞きたいことが山ほどあったためか、山田から星和台まで順序立てて書き残すまでには至らなかったのでしょうが、いにしえの藍那古道の情景を正確に書き記しています。
一度、義経一行が辿った道を辿り、合戦前の武者震いに、寒さや疲労も忘れ、ひたすら一の谷に向かった、八百年前の武者達と同行することをお薦めします。
【筆者紹介】
梅村伸雄(うめむら・のぶお)
昭和7年生。昭和27年鳥羽商船高等学校卒業。現在兵庫歴史研究会顧問。郷土史研究に携わる。著書に「源義経一の谷合戦の謎」(小社刊)『兵庫歴研』年会誌に「神戸にあった『難波』」、を連載中。その他「須磨一の谷説に物申す」を著す。