Pochitto(ぽちっト)神戸 | 地元のお話「神戸にあった難波」
更新:2020.7.23
第21回---地元のお話「神戸にあった難波」
神武天皇に続いて神戸を難波と記したのは、神功皇后です。
皇后の船団も一気に和田岬に着くことが出来ず、真野の入海に避難しました。
長田神社の手前に神功皇后上陸地点の碑があるように、皇后の大船団はこの湾内で次の東流を待っていました。
此処で皇后は、忍熊王が軍勢を集めて皇后の船を襲うと云う話を聞き、皇子を紀伊の水門に向かわせ、皇后の船は真っ直ぐ難波に向かいました。ただ間違ってならないのは、大坂の難波ではなく、和田岬の内懐にあった難波に向かったのです。
皇后の船団は、東流が現れたので海峡に乗り出したのですが、和田岬の先端で渦に掴まりぐるぐると船が回りだしました。この現象は、明石海峡の潮流が東に流れている時に起こります。理由は、和田岬の内側では時計回りのワエ潮があるのに、明石海峡には東に向かう流れがあるため、流れの方向が異なり、両者の間に小さな渦が幾つか出来ます。その渦に皇后の船が掴まったのです。その理由を知らない皇后は、神様が何かを告げたいための知らせとみて、和田岬の湧き水の畔で占いをしました。
その結果、天照大神は広田に、稚日女尊は生田に、事代主命は長田に、住吉の三神は大津の淳名倉の長峡に、それぞれ祀るように命じました。
広田・生田・長田には現在その土地に神々が祀られていますが、住吉の三神の場所が何処であるか、今まで全く分かりませんでした。
ところが江戸時代の国学者本居宣長が記す『古事記伝』に、次の記述がありました。
摂津国菟原郡に住吉村がある。そこには本住吉と言われ神社がある。その住吉村の古名はぬなくらの里と言い、武庫山(鵯越)の麓が東西に分かれた東の尾根の南端、海辺より七八町(800m前後)北に住吉の神が祀られている。
とありますが、そこはJR兵庫駅付近に当たります。この住吉が海の安全を司る神様であり、歌の神様でもありました。
大津の淳名倉の長峡とは、大きな湖とそれにつながる川(湊川)のことです。昔から湊を務め、務古水門(武庫の泊)と呼ばれて遣唐使船などが泊まった湖で、580ヘクタール(1?の58%)程あったと記録され、遣唐使達は兵庫駅の住吉神(菟原住吉)に航海の安全を祈り、長途の旅に出ました。
【筆者紹介】
梅村伸雄(うめむら・のぶお)
昭和7年生。昭和27年鳥羽商船高等学校卒業。現在兵庫歴史研究会顧問。郷土史研究に携わる。著書に「源義経一の谷合戦の謎」(小社刊)『兵庫歴研』年会誌に「神戸にあった『難波』」、を連載中。その他「須磨一の谷説に物申す」を著す。