Pochitto(ぽちっト)神戸 | 地元のお話「神戸にあった難波」
更新:2022.7.23
第30回---地元のお話「神戸にあった難波」
次の歌も神戸の歌です。
誰をかも知る人にせむ
高砂の 松も昔の
友ならなくに
誰もが知ってもらいたい高砂の松です。この松は昔から住吉の松の友で、相生の松ではないですか。
現在、高砂の松は加古川の河口にありますが、誰がそのような間違いを伝えたのでしょうか、罪なことです。歌の詠み人は、平安初期の歌人藤原興風で、三十六歌仙の一人です。余程この松が気に入ったと思います。先ず、この高砂の松の所在を確認してみます。
鎌倉時代の歌人藤原為理の詠む『集』を見ると、「月見浦松」と題し、次の歌を詠んでいます。
晴るる夜は住の江かけて
高砂や 月に相生の
松も見えけり
晴天の月夜には、住の江と高砂の相生の松が見えます。この歌には、摂津国の住吉の松と播磨国の高砂の松とは、お互いの姿を見つめながら育った松ですが、鎌倉期ともなると住の江の松も齢三百年を超えたので、いつしか姿を消してしまいました。
この歌には、住の江の松が健在であったなら、相生の松の両者が見えたのになア!と言う感慨と孤高の松に対する思いやりが込められた歌と思います。
摂津と播磨の国境は、『平家物語百二十句』では「摂津と播磨の境なる鵯越」と記載され、鵯越の南麓には大きな湖が在って、大蔵谷・一の谷などの異名を持っていました。その湖に在る泊りを難波津・大輪田泊と称し、中国の地誌『坤元録』では播磨国と記し、『行基年譜』では「摂津国菟原郡」とあって、大輪田泊が摂播両国の国境にあることを伝えています。
一の谷合戦の資料に、高砂が登場します。『延慶本』には「摂津国と播磨との堺なる、難波一の谷と云う所にぞ籠りける。去んぬる正月より、ここは屈強の城なりとて、城郭を構えて、先陣は生田の森、湊川、福原の都に陣を取り、後陣は室、高砂、明石まで続き、海上には数千艘の舟を浮かべて、浦々島々に充満したり」この記事で、先陣は生田と湊川(一の谷)で所在は分かりますが、後陣については、「明石」は和田岬で「室(無漏)」と言うのは汚れのない土地であり、長田には四天王寺が在ったため「室」と呼ばれました。
では「高砂」は何処かと言えば、国境の大輪田泊の西側で、平家が山の手の陣を布いた夢野から兵庫高校まで下る尾根に当たります。
この尾根の一部に高砂の松があって、大丸山公園辺りかと思います。一方住吉の松は、兵庫大仏の在る能福寺辺りの塩土山の頂にあって、両者の距離は2㎞程、月夜には両松が見えたと思います。
【筆者紹介】
梅村伸雄(うめむら・のぶお)
昭和7年生。昭和27年鳥羽商船高等学校卒業。現在兵庫歴史研究会顧問。郷土史研究に携わる。著書に「源義経一の谷合戦の謎」(小社刊)『兵庫歴研』年会誌に「神戸にあった『難波』」、を連載中。その他「須磨一の谷説に物申す」を著す。