Pochitto(ぽちっト)神戸 | 地元のお話「神戸にあった難波」
更新:2018.7.23
第9回---地元のお話「神戸にあった難波」
【鵯越の出来ごと (6)】
話を鵯越に戻します。
鹿道に挑戦する義経率いる馬達者70騎は、鷲尾の三男熊王が先導する奇襲部隊です。
神鉄長田を過ぎ、湊川駅のトンネルに入る手前で左手を見ると、鉢伏状の丘が見えます。 そこが鵯越のの末端で、義経一行がその山頂に立ったのが午前7時頃、開け放った大地には、一の谷城の全貌が眼下に展開していました。
熊王がいつも見ていた情景とは異なり、夢野の丘から尾根伝いに海辺まで続く赤旗の情景は、大地が燃えているようであり、赤旗の下に群がる平家の軍勢は無数の蟻がうごめいているようでした。
和田の州から生田の沖まで海上に集結した無数の軍船、特に大輪田泊と経ヶ島を取り巻く軍船の情景は、紅墨をこぼしたように赤一色に彩られ、平家の勢いを誇示しているように見えました。
これを眺める熊王は、己が連れてきた武者達が、この堅固な平家の陣に挑戦しようとしていますが、どう考えてみても勝てる筈はないと思えたし、これから下る最後の崖は、立っては下りられないので尻をずらしながら下った崖です。 この崖を前にした武者達が、どんな顔をするのか段々と興味が湧いてきたのです。
西の高取山の峠では合戦を行っているようです。煙の中からワア~ワア~という怒号に交じってビュウ~ンビュウ~ンと鏑矢の飛ぶ音が聞こえます。弟の一法師が案内した岡崎四郎の軍勢の一部です。
山の手の平家の軍勢は、並べた楯の陰から峠の戦いの様子を窺っていますが、頭の上に源氏の奇襲部隊が居るのには全く気付いていません。
大将の義経は己が命じた陽動作戦が、平家に気付かれずに進行しているのに安堵しながら、危険ながけに挑戦するように武者に向かって采配を振るいました。
最初の一町程の崖は容易に下ったものの、馬の背のような地に達した武者達は、何故か次の崖に下りようとはしません。勾配が26度前後、小石混じりの砂の崖で、足場の無い崖をどのように下りたら良いのか思案しているのです。
下手に下りれば転倒し、恥をかくのは間違いないので、二の足を踏んでいるのです。
この時、別府小太郎という若者が、奥羽十三年の合戦にて、阿部貞任に追われた頼義義家親子が高い崖に行き詰まり、自害を覚悟した時、老いた馬を落としては如何との意見を聞き、老いた馬を落としたところ、その馬は崖の下り方を教えたと伺っています、と義経に語りました。
【筆者紹介】
梅村伸雄(うめむら・のぶお)
昭和7年生。昭和27年鳥羽商船高等学校卒業。現在兵庫歴史研究会顧問。郷土史研究に携わる。著書に「源義経一の谷合戦の謎」(小社刊)『兵庫歴研』年会誌に「神戸にあった『難波』」、を連載中。その他「須磨一の谷説に物申す」を著す。