Pochitto(ぽちっト)神戸 | 地元のお話「神戸にあった難波」
更新:2018.5.23
第8回---地元のお話「神戸にあった難波」
【鵯越の出来ごと (5)】
話を義経一行が休息をとっていた鵯越に戻します。
抜け駆けする者がいないか、見回りをしていた義経は、焚火の処に戻ってみると、眠っていた筈の翁が見当たりません。 義経は、翁がさらわれ、義経一行の所在が平家の知る所になるかもしれない、と考えると不安になりました。
早速全員を叩き起し、計画通り軍勢を二手に分けました。義経率いる奇襲部隊70騎は、兄の熊王が鹿の通う鹿道を案内し、弟の一法師は岡崎四郎の軍勢600騎を、 陽動作戦の地に案内するのです。
一法師は慣れた道なので飛ぶように案内します。武者達は馬から下り、頭上の小枝を避けながら一法師を追うのですが、その早いこと、鵯越は武者達の鎧が鳴らす音で騒然となりました。 白川の家の明かりを横目に白川峠を越え、妙法寺川の川沿いの道に来て、武者達はやっと馬に乗り、一法師も岡崎四郎の鞍の前に乗せられ、道案内をしました。
妙法寺川沿いの道を暫く行くと、多井畑の古道と交わる場所に来ます。一法師は此処が義経の命じた陽動作戦の地である事を伝えました。
この古道は高取山の北野峠に達する道です。平家の武者が峠に屯して、西からやって来る原紙の軍勢を食い止める重要な役割を担っています。
義経の考えは、義経の奇襲部隊が鵯越の末端にある高い山頂に群がったときに、高取山の峠に屯する平家に見つかると、奇襲は失敗です。
従って、峠の平家の目を欺くため、峠の麓から戦を仕掛けなければなりません。然し、義経は、此処で軍勢を半分残し、後の半分は高取山の麓を大きく迂回して、 山の手を攻撃するように命じました。
峠の麓より峠を攻撃するのは多田行綱の300騎、迂回して山の手に向かうのは、岡崎四郎の300騎。
この僅かな軍勢を、大群に見せるために、焚き木なるような枯れ木や枯れ草の山を幾つも積み上げました。適当な高さの木にも白布を沢山取り付け、大群が潜んでいるようにしたのです。
峠の麓での準備が済むと、岡崎四郎の軍勢は山の手攻撃に向かったのですが、西木戸(兵庫高校の近く)で熊谷と平山とが、平家の若武者達と小競り合いをしているのが見えました。 暫くすると、平山が大声を上げ、開いた西木戸から一の谷城に飛び込んだのです。先駆けの名誉を奪われた熊谷も、悔しさを露わにしながら、平山の後を追いました。 その後、開け放たれた西木戸の中に岡崎の軍勢も飛び込み、一の谷の北の野は、朱に染まったといわれます。
【筆者紹介】
梅村伸雄(うめむら・のぶお)
昭和7年生。昭和27年鳥羽商船高等学校卒業。現在兵庫歴史研究会顧問。郷土史研究に携わる。著書に「源義経一の谷合戦の謎」(小社刊)『兵庫歴研』年会誌に「神戸にあった『難波』」、を連載中。その他「須磨一の谷説に物申す」を著す。