Pochitto(ぽちっト)神戸 | 地元のお話「神戸にあった難波」
更新:2017.7.23
第3回---地元のお話「神戸にあった難波」
【鵯越の名前の由来(2)】
鵯越について、今一つの説が『平家物語』に書かれています。
「春の霞の深して三山のこくらき時は、南山にすまう鵯の北山へ渡りて栖(す)をかけ子を生み、秋の霧はれてこすへあらはに成候へば、をくも雪に畏れて北なる鵯が南へわたる時は此山をこう。さて鵯越とは申候」
遠くの景色が霞み、ぼやけて見えにくくなる春先になると、南に住む鵯が北に渡り、巣をつくって子供を産み、秋の霧が晴れ、木の葉が落ちて木々の梢が現れる頃になると、奥山が雪に覆われるので、北に棲む鵯が南に向かいますが、 その時には、この山を越えるので、鵯越と呼んでいる、とあります。
鵯は周年見られる鳥ですが、春および秋に渡りをする鵯もいます。ただ、現在の鵯越の尾根道を通るわけではなく、道筋が決まっているわけではありません。 従いまして、鵯が通る道筋と言う考えには無理があります。
古語辞典で「ひようどり」を探すと、「日傭取り」とあって日雇いの略とあります。つまり、六甲山系の北側の人々は冬になると、野山が雪に覆われて野良仕事ができなくなります。そこで冬になると、 山越えで港町に出て日雇いの仕事に付き、春になると野良仕事をしなければならないので、自分の里に帰るのです。昭和の時代でも日雇いの人を日雇さん(ひよさん)と呼んでいたそうです。 このように山越えで働きにくる人たちを鵯と揶揄し、面白い俚言を作って語り伝えたものと思われます。 鵯越道の登り口に長福寺があります。
この山門脇に行暮地蔵尊がありますが、昔、ここは鵯道と古道越道との四辻になっていて、道行く人の目印になっていました。 鵯越を越えて藍那に至るまで三里の道程なので、山越えで行商をすると帰りは暮れになります。
従いまして、行商を終えた人たちがここに集まり、一緒に帰ったと言われています。
【筆者紹介】
梅村伸雄(うめむら・のぶお)
昭和7年生。昭和27年鳥羽商船高等学校卒業。現在兵庫歴史研究会顧問。郷土史研究に携わる。著書に「源義経一の谷合戦の謎」(小社刊)『兵庫歴研』年会誌に「神戸にあった『難波』」、を連載中。その他「須磨一の谷説に物申す」を著す。