Pochitto(ぽちっト)神戸 | 地元のお話「神戸にあった難波」
更新:2021.11.23
第26回---地元のお話「神戸にあった難波」
昔はお正月になると、決まってカルタ取りをしました。「あまつ風」と上の句を詠むと「乙女の姿しばしとどめむ」と、素早く娘さんの手が伸びたものです。
ところで、小倉百人一首の中で、神戸の歌が13首も歌われているのを御存じでしたか。これだけ多くの歌が詠まれる土地は神戸だけで、昔から神戸は美しく興味をそそられる土地でした。 前項で神戸が難波と呼ばれた土地であることをお話しましたが、その難波の波で次の歌の解釈が誤りなので、説明をさせて戴きます。
すみの江の 岸に寄る浪
よるさへや 夢の通ひぢ
人めよくらむ
この歌について「住ノ江の岸に来る夜波ではないが、私は夜、夢の中の貴女へ通うのさえ、人目を避けている」と解釈されていますが、これは神戸の地形を知らない方の解釈です。和田の州に在った湖の北側は少し狭くなり、その北には住之江と呼ばれる池があり、池の南側(JR兵庫駅付近)には初代の住??神社がありました。この神社は神功皇后に表筒・中筒・底筒の三神が「我等の和魂を大津の淳中倉長峡に祭るべし」と告げた土地で(裏付け資料あり)、現在、摂津国の一宮と言われている大阪の住吉さんは、孝謙天皇が大坂の海が危険なので神戸の住吉さん(菟原住吉)を大坂に勧請した住吉さんです。
昔、七宮神社の南に塩土山、別名、住吉の松嶺と呼ばれる丘が在って、その岸辺は深く断崖絶壁になっていました。従って、南東からの波は断崖絶壁の岸辺で打ち返されて、北からの波となり、南東からの波と交差して、「難波」と呼ばれる危険な波となります。
では、先に詠まれた藤原敏行の歌の解釈は、「住の江の岸に寄る波は、直ぐに帰ってしまいますが、それと同じように、私の夢のような通い路なのに、世間の目を気にして直ぐに帰ってしまいます。」と解釈すべきと思います。
この難波の波が良く見える浜辺は、現在の清盛塚付近で、御津と呼ばれていました。
『新葉和歌集』藤原為忠
名に高き 難波の浪の
立帰り いくたび見つと
人にかたらん
余程波の姿に興味をそそられたのでしょう、爲忠は帰ろうと思いながら、また引き返して波の姿を眺め、都に帰っての土産話の種にしようと詠んでいます。
また、菟原住吉の対岸には、四天王寺がありましたが、その別当である慈円和尚が、「海辺歳暮」の題で次の歌を詠んでいます。
今日寄せて明日たち返る
歳浪は 和歌の浦はに
かかるなりけり
いにしえの歌人たちは、珍しい波の姿を絶好な歌題として数々の歌を詠んでいますが、船乗りにとって「難波」の波は頭の痛い波でした。
【筆者紹介】
梅村伸雄(うめむら・のぶお)
昭和7年生。昭和27年鳥羽商船高等学校卒業。現在兵庫歴史研究会顧問。郷土史研究に携わる。著書に「源義経一の谷合戦の謎」(小社刊)『兵庫歴研』年会誌に「神戸にあった『難波』」、を連載中。その他「須磨一の谷説に物申す」を著す。