Pochitto(ぽちっト)神戸 | 地元のお話「神戸にあった難波」
更新:2022.11.23
第31回---地元のお話「神戸にあった難波」
次の歌も神戸の歌です。
ありま山 猪名の笹原
風ふけば いでそよ人を
忘れやはする
ここで詠まれた歌は平仮名で「ありま山」と書かれているので、有馬温泉の有馬山と解釈しがちですが、歌に猪名の地名が詠まれているので、この「ありま」は有間と解釈し、夢野台高校の東の道路が山間になっているので此処を有間と呼び、歌の舞台になったと考えられます。
仁徳天皇と八田皇后が毎夜菟餓野(頓田山)の鹿の声を楽しんでいましたが、その鹿を猪名の佐伯部が殺して献上した話や、佐伯部の技術で仁徳天皇の高津宮の北の野を掘って湊川を長田神社前の入江に流し、兵庫一帯の水害を無くした一大事業などを、風が吹いた時などには、笹原の笹が昔の事柄を忘れないようにと囁いています、と紫式部の娘が詠んだ歌と解釈出来ます。
彼女も紫式部同様に日本書紀に精通していたので、日本書紀の舞台を歌に詠んだものと考えられます。
さて、応神天皇の御世、諸国が献上した五百艘の舟が、新羅の船の失火から兵庫の湖で多くの船が焼失しました。
この失火に恐縮して新羅の王が送ってきた技術集団が猪名部と呼ばれました。湖の北端に湊川の河口が在って、そこが『播磨国風土記』記載の「赤石の湊」と呼ばれる上陸地点ですが、その赤石が猪そっくりであったため、その周辺に住む者たちを「猪名部」と呼んだのでしょう。この赤石を国境とすると、ここより西は播磨国であり、兵庫の湖から西須磨にかけて、播磨国と記す文献や和歌が、六十程見つかっています。
従って、須磨の鉢伏山の堺川を摂播両国の国境とするのは誤りです。一方、清盛塚近くにある船泊は御津と呼ばれる有名な湊で、この御津を詠んだ歌が、御津の情景を櫛と呼んでいるので紹介します。 『万葉集』、丹比真人笠麻呂、筑紫の国に下る時に作る歌。
臣女の櫛笥に乗れる鏡
なす御津の浜辺に……。
この歌は長歌なので、一部のみを紹介しましたが、歌の内容は、夫婦の絆を解き放てぬま、我妻を偲びつつ兵庫の湖の情景を詠んだ歌です。
歌に登場する御津の浜辺の情景を「臣の女の櫛筍」と詠んでいるのは、景行天皇の后である印南別嬢が亡くなった時、亡骸を舟に乗せ印南川(兵庫の湖)を遡っている時に突風が吹き、亡骸を川の底に沈めました。そこで亡骸を探しましたが見つからず、見つかったのは彼女の衣と櫛のみでした。従って御津の岸辺が模様に似ているので、国境の「赤石櫛淵」と言われました。
【筆者紹介】
梅村伸雄(うめむら・のぶお)
昭和7年生。昭和27年鳥羽商船高等学校卒業。現在兵庫歴史研究会顧問。郷土史研究に携わる。著書に「源義経一の谷合戦の謎」(小社刊)『兵庫歴研』年会誌に「神戸にあった『難波』」、を連載中。その他「須磨一の谷説に物申す」を著す。