Pochitto(ぽちっト)神戸 | 地元のお話「神戸にあった難波」
更新:2022.1.23
第27回---地元のお話「神戸にあった難波」
小倉百人一首で周知の次の歌も神戸で詠まれた歌です。
天の原 ふりさけ見れば 春日なる 三笠山に 出でし月かも
養老元年(七一七)三月、第9回遣唐使に同行、吉備真備らと共に、遣唐留学生として唐の国に渡った若干19歳の阿倍仲麿は、玄宗皇帝に仕えました。天宝12年(七五三)、 折から入唐した遣唐大使藤原清河らと共に鑑真に会い、日本への渡航を薦め、自らも清河らとともに同年11月15日、36年過ごした唐を離れて故郷へ向かう船に乗ることになった時、親交のあった詩人達が送別の宴を開いてくれました。その時、仲麿が詠んだのが先の歌です。 歌に登場する三笠山を現在奈良の三笠山としていますが、仲麿は場所を特定していません。つまり、三笠山は神戸にもあって、平安後期の中納言藤原成範が播磨守の時、次の歌を残しています。
三笠山 峰より出でて 隈もなき 明石の浦を 照らす月影
播磨の明石とは和田の州のことで、昔から月の名所と言われています。と言うことは、遣唐使船が神戸の難波津に停泊している時に、三笠山とその麓に展開する湖と周辺の土地の情景が光と闇の二色に染められ、素晴らしい情景を醸し出してそこで神戸の三笠山についてお話しましょう。神戸の会下山公園の北西に会下山配水場がありますが、この水タンク設置時に直径約20メートル以上の円墳古墳が出土しました。全長580m以上、高さ及び幅約1メートル以上の石室で、出土したものは、銅鏡、鉄剣、鉄鏃、直部片、鉄斧、石製品などの他、経塚関係の遺物が出土したので、平安時代に経塚が埋蔵されたと考えられます。 鎌倉時代、丘の麓に在った初代の四天王寺の別当慈円和尚が聖徳太子の陵を参詣して菟原住吉に戻り、歌会を開いている記事があるので、この古墳は未だ不明とされている太子の古墳磯長陵(しながのみささぎ)と考えられます。ただ大阪府太子町にも聖徳太子廟が在りますが、これは宮内庁では、正式には墓になっていないということです。
神戸の三笠山(三草山)は、当時の人ならば太子の陵墓であり、崇め尊ぶ山です。その山と湖が月光の元で醸す情景は心に沁みる情景であり、仲麿が感動した情景と思われます。 一方、奈良の三笠山は春日大社の祭神である武甕槌命が、藤原氏により勧請されましたが、それは神護景雲2年(768)であり、第9回遣唐使船が船出した51年後の事です。従いまして、遣唐使らが奈良の三笠山を崇める謂れはないと思います。
【筆者紹介】
梅村伸雄(うめむら・のぶお)
昭和7年生。昭和27年鳥羽商船高等学校卒業。現在兵庫歴史研究会顧問。郷土史研究に携わる。著書に「源義経一の谷合戦の謎」(小社刊)『兵庫歴研』年会誌に「神戸にあった『難波』」、を連載中。その他「須磨一の谷説に物申す」を著す。