Pochitto(ぽちっト)神戸 | 地元のお話「神戸にあった難波」
更新:2023.9.23
第37回---地元のお話「神戸にあった難波」
『綺語抄』 大伴家持
なごの海を
海人(あま)漕ぎ来れば
海なかに鹿もなくなる
哀れその鹿子
前記、名児の海には、泣いている鹿がいるが、哀れでならない。と詠まれる鹿は、摂津・播磨両国の『風土記』の中で、野島(和田岬の先端にあった島)に棲む妖艶な牝鹿に逢いに行く牡鹿の話で、妻の牝鹿が制止するのも聞かず、野島の牝鹿に逢いに行く途中、猟師に射られ、血みどろの姿で海底に横たわり鳴いていると記される伝説に彩られる鹿に似た赤石です。
その鹿石を一目見たいと、毎年、大潮時に大勢が舟に乗り、見え隠れする鹿の姿を見に行く情景を詠んだ歌です。この情景を素材に、詠まれた歌の一つが次の歌です。
『頼政集』時々見恋 源頼政
なごの海 潮干潮見つ
磯の石となれるが君が
見え隠れする
頼政の娘讃岐が、中宮として御殿勤めをしている様子を詠んだ歌で、干潮の時に時々見える磯の石のように、我が娘も時々しか姿を見せない、と詠んだ歌ですが、この歌から宮中で「沖の石の讃岐」と娘は呼ばれていました。
父の頼政は、清和源氏の流れで、保元の乱、平治の乱では平家側に組みし、戦後は平氏政権下で源氏の長老として中央政界に留まり、平清盛から信頼され清盛の推挙により、晩年には武士として破格の従三位に昇り公卿に列しました。
しかし、平家の専横に不満が高まる中で、後白河天皇の皇子である以仁王に頼まれ打倒平家を目的に挙兵を計画、諸国の源氏に平家打倒の令旨を発しました。
ところがその令旨を持参した源行家は、畿内から配布したためか、4月9日発した令旨は5月12日には平家の知る処となり、以仁王と頼政は計画が早く露見したため、準備不足のまま挙兵を余儀なくされました。23日には、平家の追討を受けて宇治平等院の戦いに敗れ、木津川の高い岸に隠れて、和歌を詠みました。
埋木の花咲く事も
無りしに実の成る果てぞ
哀れなりける
このような歌を詠むとは覚えなかったと申し、自害をしました。
娘の讃岐は、この悲しみを歌にしたのが、『小倉百人一首』に次の様に詠まれています。
『千載集』恋二、二条院讃岐
わが袖は潮干に見えぬ
沖の石の人こそ知らね
かわく間もなし
この石は前記「名児の浜」の赤石
【筆者紹介】
梅村伸雄(うめむら・のぶお)
昭和7年生。昭和27年鳥羽商船高等学校卒業。現在兵庫歴史研究会顧問。郷土史研究に携わる。著書に「源義経一の谷合戦の謎」(小社刊)『兵庫歴研』年会誌に「神戸にあった『難波』」、を連載中。その他「須磨一の谷説に物申す」を著す。