Pochitto(ぽちっト)神戸 | 地元のお話「神戸にあった難波」
更新:2024.5.23
第40回---地元のお話「神戸にあった難波」
「難波」と言えば、大阪のことだと殆どの人は考えると思います。無理もありません。
露と落ち露と消えにし
我が身かな浪速のことも
夢のまた夢
と太閤秀吉が詠んだ辞世の短歌が大坂を浪速(難波)の地と決定付けしています。
しかし、神戸で行われた一の谷の合戦の舞台も難波一の谷と呼んでいます。では、何時頃から神戸を浪速と呼んでいたのか、記紀に尋ねてみます。
神武天皇東征の記事には、「吉備の高島宮に八年坐しき」の記事の後に神武天皇と国つ神との出会いがありますが、それが何処かと言えば、長田神社の手前まで湾になっていた真野入江と考えられます。その記事は、速吸之門(真野入江)においでになると、一人の漁人が小舟に乗ってやってきた。天皇は呼びよせてお尋ねになり、「お前は誰か」といわれた。答えて「私は土着の神で、珍彦(うずひこ)と申します。曲(わた)の浦に釣りにきており、天神(あまつかみ)の御子がおいでになると聞いて、特にお迎えに参りました」という。また尋ねていわれる。「お前は私のために道案内をしてくれるか」と。「御案内しましょう」という。天皇は命じて、漁人に椎竿(しいさお)を差出し、つかまらせて舟の中に引き入れ、水先案内とされた。
この文に登場する土着の神の名を「珍彦(うずひこ)」と呼んだのは、和田岬の東の海域には西流の時には和田岬の北側の海域に時計回りのワエ潮が流れますが、この流れは東流に変わった場合にも時計回りの流れは変わりません。従って、西に向かうワエ潮と東に向う東流との間に渦ができますが、この渦は文献上でも有名で、神功皇后の船が真っ直ぐに難波(和田の州)に向った時にも渦に掴まりぐるぐる回りましたが、皇后はこの不思議な船の動きを神のお告げと解釈し、和田岬で神々のお告げを聞き、天照大神は広田に、天照大神の妹は生田に、事代主命は長田に、筒男の三神は渟中倉長峽(JR兵庫駅付近)にそれぞれの神を祀りました。
また、珍彦が曲と呼んだ釣り場は、和田岬が大きく湾曲している処から、大輪田・大和田とも呼ばれており、珍彦が和田の州に釣りに来ていたことを告げています。
さて、神武天皇の一行は、暫く和田の州に滞在し、東に向う強い流れが現れた時に入江を船出しました。その時の様子を次のように記しています。
春2月11日、天皇の軍はついに東に向った。軸艪相つぎ、まさに難波碕(和田岬)に着こうとする時、速い潮流があって大変速く着いた。よって名づけて浪速国とした。また浪花ともいうのはなまったものである。文献上、和田の州を浪速と呼んだ最初です。
【筆者紹介】
梅村伸雄(うめむら・のぶお)
昭和7年生。昭和27年鳥羽商船高等学校卒業。現在兵庫歴史研究会顧問。郷土史研究に携わる。著書に「源義経一の谷合戦の謎」(小社刊)『兵庫歴研』年会誌に「神戸にあった『難波』」、を連載中。その他「須磨一の谷説に物申す」を著す。