Pochitto(ぽちっト)神戸 | 地元のお話「神戸にあった難波」
更新:2023.11.23
第38回---地元のお話「神戸にあった難波」
由良のとを渡る舟人
かぢを絶え行くへも
知らぬ恋の道かな
(通訳)由良の門を渡る舟人は漕ぐのを止め、何処に行くのか分からないが、凡そ考えられるのは、恋の道だろう。
由良の門が史上に現れるのは、応神天皇が難波の大隅の宮(新開地付近)に移られた、その後の話で、官船の枯野が朽ち、使い物にならなくなったので、焼いて塩を作り、諸国に施すように命じました。この船を焼きましたが、どうしても焼けない木があったので、その木で琴をつくった処、琴の音はさわやかで、遠くまで響きました。そこで天皇が詠まれた歌、
枯野を塩に焼き、其の余りで琴を作り、かき弾くや、ゆらの門の、門中の海岩(いくり)に触れる、浸漬木(なづのき)の、さやさや
応神天皇の居られる武庫の泊には、「門」と呼ばれる河口が、和田岬と清盛塚の手前にあります。
清盛塚の前には、満潮時には渡れませんが、干潮時には歩いて対岸に行けます。その時の渚の模様が「ゆらゆら」と揺れるので、枕詞に「ゆら」が使われました。
『玉葉』記載の記事に、
「9月21日、三河守範頼大将軍として、軍兵数万騎、西国へ平家追討の為に発向したりけれども、急ぎ屋嶋へも攻め寄せず、西国に休らいて、室、高砂の遊君遊女を召し集め、遊び戯れてのみ月日を送りけり」とあります。
このゆらの門を舟で越え、対岸に上陸すると、範頼率いる平家追討の大軍勢が遊び惚けた室・高砂の遊女がいます。
一方『播磨国風土記』には、「昔、あらぶる神がいて、常に行く人の舟を妨害し半ば通さなかった」とありますが、このあらぶる神とは、JR兵庫駅付近に在った菟原住吉を指します。何故、舟の航行を妨げたかと言えば、昔、明石海峡を通る際には、強い潮流があるため大変苦労をさせられました。従って、和田の州に在る難波津に入ると、船乗りたちは、菟原住吉の前に広がる住ノ江の西岸の室・高砂の遊女屋で海上での苦労を癒します。この遊びを「荒ぶる神に留められた」と弁明しました。冒頭の歌もその様子を伝える歌で、このゆらの門に在る赤石に大伴家持が詠んだ歌。
名児の海を
海人漕ぎ来れば海中に
鹿も鳴くなる哀れその鹿
名児の海とは、允恭天皇の時代、天皇の依頼で深海に潜り、大きな真珠貝を抱えて舟に戻ったものの、船端で亡くなった海人の海を指し、和田岬の浜辺、清盛塚の在る浜辺を指します。
その浜辺に応神天皇が詠まれた赤石が在って、鹿に似た姿から、流木が触れると鹿の鳴声の様な音を立てていました。
この話は、次に続きます。
【筆者紹介】
梅村伸雄(うめむら・のぶお)
昭和7年生。昭和27年鳥羽商船高等学校卒業。現在兵庫歴史研究会顧問。郷土史研究に携わる。著書に「源義経一の谷合戦の謎」(小社刊)『兵庫歴研』年会誌に「神戸にあった『難波』」、を連載中。その他「須磨一の谷説に物申す」を著す。