Pochitto(ぽちっト)神戸 | 地元のお話「神戸にあった難波」
更新:2017.11.23
第5回---地元のお話「神戸にあった難波」
【鵯越の出来ごと (2)】
義経が都に入った時、真っ先に尋ねたのが、これから戦わねばならない平家の情報で、福原に堅固な城郭を築いた一の谷城の詳細です。
幸いなことに、子供の時に鵯越で狩をしていた久我興延と云う人物が見つかり、彼に平家の陣容を尋ねたところ、東からも西からも海からも攻める方法はありません。北は断崖絶壁が連なり、とても城内に入ることは無理ですと教えられました。
義経にとって絶望的な情報ばかりです。その時、福原には鹿の話が数多くあるのを思い出した義経は、興延に鹿道が城内に通じているかを尋ねると、鹿道が城内につながってはいますが、城内に入る最後の崖は、馬も人も下ることは無理ですと、次のように語りました。
「平家のおわする城の上から、十四五丁(1600m)ぞ候らむ。五丈計(15mばかり)は落すと云ども、其より下へは馬も人も、よも通ひ候わじ。思ひ留り給ひ候へ」と申て、掻き消すやうに失せにけり。
その崖を、今測ってみますと、高さが15m程、小学校の校庭にある滑り台程の傾斜が一直線に下っているのです。
秋になり木の葉が落ちて鵯越道が明るくなると、決まって鹿が北からやって来ます。
その鹿道を辿って最後の崖に来た時、興延は這いながら下りた経験を思い出し、馬で下りるのは絶対無理と考え、「思ひ留り給ひ候へ」と諫言したのですが、どうしたことか、義経は関東武者の頭領を集め、部下に鹿を追って崖を下ったことのある武者の有無を尋ねました。
そうしますと、70騎程の武者が名乗り出たのです。
『平家物語』では、「掻き消すやうに失せにけり」と翁が姿を消したと記しているのを、「思ひ留り給え」と、無理だと進言しても、義経が聞かないので諦めたと解釈しないで下さい。『平家物語』を書いている時代は、義経に味方した者を、鎌倉の地頭が眼の色を変えて探していた時代なので、名前を伏せていたのです。まして播磨国の守護職は、義経を目の敵にしていた梶原景時なので、用心をしなければならないのでした。
さて義経は、どのように鵯越を利用して平家を滅ぼそうとしたのでしょうか。義経の逆落としのタイトルは、「義経、鵯越を落とす」です。ネットを利用されている方は、ヤフーで「義経の逆落としを空から見る」を検索してみて下さい。
【筆者紹介】
梅村伸雄(うめむら・のぶお)
昭和7年生。昭和27年鳥羽商船高等学校卒業。現在兵庫歴史研究会顧問。郷土史研究に携わる。著書に「源義経一の谷合戦の謎」(小社刊)『兵庫歴研』年会誌に「神戸にあった『難波』」、を連載中。その他「須磨一の谷説に物申す」を著す。