Pochitto(ぽちっト)神戸 | 地元のお話「神戸にあった難波」
更新:2022.5.23
第29回---地元のお話「神戸にあった難波」
次の歌は百人一首と共に、神戸には馴染み深い歌です。
難波潟 みじかき蘆の
ふしの間も あはで
此の世を過してよとや
難波潟の蘆の、短い節と節の間のように、ほんの少しの間でさえも、逢わないでこの世を過ごしなさい、とおっしゃるのですか。
寛平六年(八九四)遣唐使に任命された菅原道真が、遣唐使の廃止を上奏し、宇多天皇がこれを受け、遣唐使が廃止される、と言う国内の事情にあったと思われます。
宇多天皇は寛平九年(八九七)に、御子醍醐天皇に位を譲られた後、二年(八九九)にして法皇となられましたが、この落飾の時に七条后が次のような歌(『後撰和歌集』)を詠まれました。
人渡す 事だになきを
なにしかも長柄の橋と
身のなりぬらん
人を渡すこともないのに、まあ、長柄の橋と同じ身になってしまって、と言う意味で、政務からすっかり身を引いただけではなく、何故、長柄の橋と同じように人が来ない身分になられるのでしょうか、と言っているようです。
長柄の橋は和田岬の先端に在った野島へ渡る橋で、遠くに旅立つ舟人を見送るために家族や友人たちが橋を渡って見送りに行った橋です。
遣唐使の廃止される前には、長柄の橋は賑わっていましたが、仁和三年七月(八八七)大地震で野島は水没し、それ以降、長柄の橋は再建されていません。
宇多上皇は、落飾する少し前の寛平十年(八九八)、摂津の菟原住吉に参詣し、住吉社で歌会を催しました。
当時小野小町と並び称され、恋愛歌人と言われた伊勢は、寛平七年(八九五)宇多帝の寵愛を受けて男子を生んでいますが、その伊勢もこの歌会に列席し、難波潟に群れる芦の短い節の間を利用し、短い時の間さえも、逢わないで此の世をお過しなさい、とおっしゃるのでしょうか、と恨み言を詠みました。
この歌の詠まれた歌会が、彼女の思い出の中に終生残っていたのでしょうか、人生の後半、次のような歌を残しています。『古今和歌集』
難波なる長柄の橋も
造るなり今は我が身を
何に例へむ/p>
古く朽ちた難波の長柄の橋も造り替えるそうです。橋が新しくなり、人が大勢通うようになったら、年老いた私を何に例えたらよいのでしょうか。
遣唐使が廃止された後も、名所和田岬を訪れる人のために、長柄の橋を造り替える話があったのだろうか、次の歌では橋が絶えたことを鎌倉中期歌人藤原為家は次の歌を残しています。
津の国のなにはさすがに
たてながら(長柄)
通はぬ橋と跡は絶えにき
【筆者紹介】
梅村伸雄(うめむら・のぶお)
昭和7年生。昭和27年鳥羽商船高等学校卒業。現在兵庫歴史研究会顧問。郷土史研究に携わる。著書に「源義経一の谷合戦の謎」(小社刊)『兵庫歴研』年会誌に「神戸にあった『難波』」、を連載中。その他「須磨一の谷説に物申す」を著す。