Pochitto(ぽちっト)神戸 | 地元のお話「神戸にあった難波」
更新:2021.1.23
第23回---地元のお話「神戸にあった難波」
一の谷が摂播両国の内で一番美しい湖であったことをお話しましたので、次いで一番大きい湖であったお話をします。
遣唐使が唐に渡り、船出の地について唐の役人に話したのでしょう、中国地誌『坤元録』に次の記事が載っています。
雍州有百頃泊、岐州有荷池
今案播磨国大輪田此類也
つまり、雍州(長安)には百頃(けい)の泊があり、岐州には荷池があるが、考えられるのは播磨国の大輪田とはこの類であろう。
という記事ですが、百頃とは大輪田の泊の大きさで、58~67ヘクタール程と言うことでしょう。また岐州は長安の対岸で、そこには鳳凰が羽を広げたような湖があったようです。つまり。兵庫に在った湖は、大きさでも美しさでも摂播両国でこれ以上の湖はないということから、「難波一の谷」と名付けたと思われます。
湖の大きさについて一言付け加えますと、応仁天皇の御代のお話です。
諸国から五百隻の船が献上され、その船が武庫の湊に集まりました。
そのとき新羅の調の使いが武庫に泊っており、そこから失火、その類焼で多数の船が焼けたので新羅の人を責めました。新羅王はこれを聞き、大いに驚いて優れた匠(たくみ)を奉りました。
船の大きさは判りませんが、五百艘の船が停泊出来たと言うことは、播磨・摂津・河内の内では、この大輪田泊のみです。加えて、遣唐使船四隻が同時に停泊できる水深の深い湊も他にはありません。従いまして遣唐使船・遣新羅使船・防人たちが集結した難波津と言うのは、ここ大輪田泊の別称でした。
このように大きくて美しい泊が、都の入り口である明石海峡の東、言い換えれば、都の喉元にある以上、都の防衛の最前線の役をも担っていたわけです。
古代の大乱と言われた壬申の乱以降、天武天皇は、戦功のあった大伴吹負に、西国の財政・交通(通信)・軍事を抑えるために、この大輪田泊とこの地を管理させましたが、後に生田・武庫・長田の三つの里が難波小郡と呼ばれるようになりました。
現在、難波と言うと大阪のことと考えるのが常識ですが、昔、難波といえば、此処難波小郡の地を指し、神戸の地が難波と呼ばれ、清盛塚のある処が大伴の三津と呼ばれて、数多くの和歌が詠まれました。
【筆者紹介】
梅村伸雄(うめむら・のぶお)
昭和7年生。昭和27年鳥羽商船高等学校卒業。現在兵庫歴史研究会顧問。郷土史研究に携わる。著書に「源義経一の谷合戦の謎」(小社刊)『兵庫歴研』年会誌に「神戸にあった『難波』」、を連載中。その他「須磨一の谷説に物申す」を著す。