Pochitto(ぽちっト)神戸 | 地元のお話「神戸にあった難波」
更新:2020.1.23
第18回---地元のお話「神戸にあった難波」
鵯越は日雇取越と言われ、山田・藍那の人が日雇いとして兵庫の街に通う道で、山頂には高尾地蔵尊が祀られ、次のような伝承が語られています。
その昔、奈良に都があった時代、当山に辿りついた皇位のご老人が疲労と衰弱で松の根方に座られていました。その時に村人二人が通り掛ったので水を乞われて身分と氏名を告げられ「私をこの地に地蔵尊として祀っておくれ、然らば念ずる者には目病と病足を救う」と申され、御身分を明かす品を村人に渡し天に召されました。そこで村人は、小さなお堂を建て地蔵尊と遺品を安置しました。その後、旅人通行人はここで旅の安全祈願をしました。
ある時、無頼のものが火事を出してお堂は全焼し、御身分を明かす遺品も焼失しました。従いまして地蔵尊は松の木間にお祀りされました。
またある時、心なき者が「本当に助けてくれるか」と言うと、突然大声で「誠の心で祈れば、助けるぞ」との声がしたとの噂が人々に伝わり「高尾の地蔵さん物を言う」と古人の口伝が今も伝えられています。
この口伝の中に「皇位のご老身」と書かれている点に注目したい。何故ならば従者たちが、大切な方の墓を村人達に護らせるための作り話かと思われる。今なお従者たちの子孫であろうか、忌日には子孫が集まりお祀りをしています。
これは奈良時代のお話で、孝謙天皇(女帝)の御代、天皇は皇位を淳仁天皇に譲られました。その淳仁天皇は天皇になられる前、藤原仲麻呂という人の息子の未亡人と結婚、また仲麻呂の私邸に住んだりと、仲麻呂の庇護を受けていました。
幼い時の淳仁天皇は、暮らし向きに苦労していたのでしょう。自分に対し親切な仲麻呂を信頼していました。しかしこのように親切にしてくれるのは、忠臣か野心のある人物であり、仲麻呂は後者でした。
淳仁天皇が即位されてから仲麻呂の態度が途端に横暴になり、政治を自分の意のままにしたため、孝謙上皇は政治に係る権限を放しませんでした。このような時、保良宮滞在中の孝謙上皇に道鏡が接近したことを仲麻呂と淳仁天皇が咎めたため、上皇との不和が決定的となり、淳仁天皇は孝謙上皇と対立する立場になり、政務は上皇と天皇の間で二分されるに至りました。
【筆者紹介】
梅村伸雄(うめむら・のぶお)
昭和7年生。昭和27年鳥羽商船高等学校卒業。現在兵庫歴史研究会顧問。郷土史研究に携わる。著書に「源義経一の谷合戦の謎」(小社刊)『兵庫歴研』年会誌に「神戸にあった『難波』」、を連載中。その他「須磨一の谷説に物申す」を著す。