Pochitto(ぽちっト)神戸 | 地元のお話「神戸にあった難波」
更新:2023.3.23
第33回---地元のお話「神戸にあった難波」
わびぬれば今はた同じ
難波なるみを尽くしても
逢はむとぞ思ふ
宇多天皇に寵愛され三人の親王を生んだ藤原時平の娘、褒子と元良親王との密事が発覚した後に詠まれた歌です。(通釈)このようにつらい目に遭って悩み苦しんでいるので、今は難波にある澪標という言葉ではありませんが、身を滅ぼしても貴女にお逢いしたいと思います。
澪標(みおつくし)は大阪市の市章ですが、歌の舞台は大坂ではなく神戸です。
紫式部の『源氏物語』に「澪標」が登場しますが、彼女が記した「須磨」「明石」「澪標」の舞台は、明石と呼ばれた和田の州から須磨までの土地で、「澪標」には、源氏と明石の君の再開が記されています。
その一部を現代語訳で紹介します。
その秋、源氏の君は住吉(JR兵庫駅付近)に御参詣になる。種々願いが叶ったお礼をなさるためであり、盛大な御行列で参詣なされた。
丁度その時、明石の君は毎年住吉詣されていたのに、出産と子育てで欠かしていたため、住吉詣を舟で参られた。
岸に舟を着けると、大勢の人で岸辺はいっぱいでした。
そこで「どなたがお参りなされるのですか」と尋ねると、「内大臣様が御願ほどきにお参りされるのを知らない人もいるものだ」と笑われました。 〔中略〕明石の君が、この騒ぎに圧倒されて立ち去った事を惟光が源氏に申し上げると、「少しも知らなかった」と不憫にお思いになられる。住吉の社を後にされて、方々残らずお立ち寄りになる。難波での御祓などは格別立派にお勤めする。堀江の辺りをご覧になって、「今はた同じ難波なる、身を尽くしても逢はむぞと思う」と感慨をお漏らしになるのを、傍近くに控えている惟光が耳にしたのであろうか、懐中に用意した筆などを差し上げた。源氏は、
みを尽くし恋ふる印に
ここまでも巡り逢ひける
えにしは深しな
と詠み、下人に渡された。
これを受け取った明石の君は、田蓑嶋(大開通)でお祓いをする道具に添えて歌を奉る。
数ならで難波の事も
かひなきになどみを尽くし
思ひそめけむ
この歌を受け取った源氏は、日暮れになり、潮が満ち入江の田鶴が鳴き渡る情景の中で、
つゆけさの昔に似たる
旅ころも田蓑の島の
名には隠れず
露で濡らした昔のように、私の衣は涙で濡れています、田蓑の島という蓑があるのに。
物語の舞台となった澪標は、兵庫の湖、別名「堀江」と呼ばれ、堀江の南端より大開通まで約一万歩、1キロ半ほどあるのと、浅瀬が点在するために、舟人のためには澪標が必要でした。
【筆者紹介】
梅村伸雄(うめむら・のぶお)
昭和7年生。昭和27年鳥羽商船高等学校卒業。現在兵庫歴史研究会顧問。郷土史研究に携わる。著書に「源義経一の谷合戦の謎」(小社刊)『兵庫歴研』年会誌に「神戸にあった『難波』」、を連載中。その他「須磨一の谷説に物申す」を著す。