Pochitto(ぽちっト)神戸 | 地元のお話「神戸にあった難波」
更新:2019.7.23
第15回---地元のお話「神戸にあった難波」
【鵯越の出来ごと (12)】
周防に入った範頼の軍勢は、これからの戦いについて相談したのでしょうが、方針が決まらず、嫌気のさした武将が国に帰る始末です。
これを知った鎌倉は、屋島に向かうか九州の豪族を味方に付けるようにせよ、と命令を下しました。
その結果、翌年の正月に入り、豊後の豪族臼杵緒方が兵船82艘、周防の宇佐那木が兵糧を献じたため、範頼軍は豊後に渡り、平氏を背後から攻撃する拠点を作りました。
ただ、その後の戦いについて迷っていました。この状況を知った鎌倉は、範頼に任せてはおけないと思ったのでしょう、2月初め、義経に平家追討の命令を下したのです。
2月13日、津ノ国渡辺に源氏の軍勢が集結し、2月15日、逆櫓の争いが起こりました。現在、この争いが起こったのは大阪の渡辺橋付近と言われていますが、実は兵庫の清盛塚の付近で起こった事件です。
歴史を語るには、現在の地名で語らず、昔の地名で語るべきです。和田岬から川崎の州までは大きく湾曲する岸辺で曲辺(わたなべ)と呼ばれていましたし、和田岬の内側には龍王が居たため大物(おおもの)の浜と呼ばれ、ここが逆櫓の争いの地でした。
事件が起こったのは、真光寺さん辺りと思われます。これから起こる舟戦の準備として、舟の船首に櫓を備えようと、梶原景時が提案しました。その訳は、強い敵が来たならば後ろに逃げられるようにしようと言うのです。
これを聞いた義経は、大将が後ろに居て、「駆けよ攻めよと云っても引退くは兵の習なり、況や始めから逃支度していたら戦いに勝てるわけがない」と言うと、梶原は「大将の謀事の良いのは、身を全うして敵を亡す、前後をかへりみず向ふ敵ばかりを打取らんと、攻め所を知らぬば猪武者の所業、危ない戦いでござる」と言うと、猪武者と言われて腹を立てた義経は、「猪鹿は知らず、義経は、只敵に打ち勝つのが心地が良い、戦と云うのは、家を出た日より、敵と組んで死んでも良いと思う事である、身を全うせん、命が惜しいと思うならば、元より軍場に出ぬ方が良い、敵に組んで死ぬは武者の本望なり、命を惜みて逃ぐるは人ならず、されば貴殿が大将軍になった時には、逃仕度して、百挺千挺の逆櫓をも立て給へ、義経が舟はいまいましければ、逆櫓と云ふ事、聞くとも聞かじと宣へば、あたり近き兵共是を聞きて、一度にどっと笑いました。
笑われた景時は、この時より義経を恨むことしきり、とか。
【筆者紹介】
梅村伸雄(うめむら・のぶお)
昭和7年生。昭和27年鳥羽商船高等学校卒業。現在兵庫歴史研究会顧問。郷土史研究に携わる。著書に「源義経一の谷合戦の謎」(小社刊)『兵庫歴研』年会誌に「神戸にあった『難波』」、を連載中。その他「須磨一の谷説に物申す」を著す。