Pochitto(ぽちっト)神戸 | 地元のお話「神戸にあった難波」
更新:2019.11.23
第17回---地元のお話「神戸にあった難波」
話は飛び、壇ノ浦の戦いで捕らえた平家の総大将平宗盛を引き連れ、鎌倉に向かった義経でしたが、鎌倉に入れてもらえず、宗盛親子を伴い都に戻る途中、琵琶湖の畔で宗盛親子の首を取り、都に入りました。
元暦元年(一一八五)七月、この平家滅亡の翌月、都はとてつもない大地震に襲われました。都の人々は「平家の怨霊によって都が破壊する、怨霊は恐ろしいもの、如何したらよいか」と恐れ慄き、文治と改元しました。
梶原景時の息子景季が、都の義経と行家の行動を鎌倉に報告、鎌倉は義経に叛意ありと解釈して、義経暗殺の使者土佐房昌俊を送りますが、暗殺の意図を見破られ、逆に義経に処刑されます。
これを切っ掛けとして鎌倉は義経追討を命じ、北条時政を大将として三万の軍勢が都に向かいます。
義経は京都で軍勢を迎え討っても良いが、それでは法皇や都の人のためにならないと申し、九州四国で活動できるように下し文を戴き、義経と同道するもの五百余騎を引き連れ、大物の浦に向かいました。
この大物の浦を尼崎と解釈されている方が大勢いますが、それは間違いで、和田岬の内側には竜神が棲むといわれ、竜神が棲むので大物の浦と昔から言われていました。
この大物の浦(兵庫の湖)に停泊した一行が九州に向かおうとする寸前、寒冷前線の南東の風が吹き、一行の舟は湖の西岸(長田)に吹き寄せられ、座礁してしまいました。
義経と共に九州に逃れようとしていた武者たちは、この災難は平家の怨霊の仕業と考え、義経から逃げ出してしまったのです。
義経・弁慶・静らは長田にあった四天王寺の塔頭に一泊したのち和泉に渡り、吉野山から伊賀越えで姿を隠してしまいましたが、一行に付いて来た女房達は長田に逃れようとしている内に逃げ遅れ、その内に寒冷前線通過後の強い西風によって対岸の住吉の浜(薬仙寺付近)に吹き寄せられて座礁し、十余人の女房達は松の下、砂の上で泣き伏してしまいました。
これを哀れに思ったJR兵庫駅付近に在った菟原住吉の神主が、乗り物を仕立てて都に送ってやりました。この怨霊対策の一つとして文治二年七月、頼朝は平家の怨霊をなだめるため、高野山大塔建立と供養を命じました。
現在の私どもに理解できぬほど、当時の人々は怨霊を怖がったのです。
【筆者紹介】
梅村伸雄(うめむら・のぶお)
昭和7年生。昭和27年鳥羽商船高等学校卒業。現在兵庫歴史研究会顧問。郷土史研究に携わる。著書に「源義経一の谷合戦の謎」(小社刊)『兵庫歴研』年会誌に「神戸にあった『難波』」、を連載中。その他「須磨一の谷説に物申す」を著す。