Pochitto(ぽちっト)神戸 | 地元のお話「神戸にあった難波」
更新:2018.3.23
第7回---地元のお話「神戸にあった難波」
【鵯越の出来ごと (4)】
では合戦前夜、子供二人と共に焚火のほとりで眠っていた興延の父親はどうしたのでしょうか。
『平家物語』では、
掻き消すやうに失せにけり。いとど心細ぞ思されける。
と翁の姿が消えたとありますが、これは翁の素性を明かさないという事情の他に、翁が誰かにかどわかされたのです。
従って義経は、源氏の軍勢が鵯越に現れたことを平家に悟られはしないかと、ひとしお心配した次第です。
その犯人は、熊谷次郎直実の仕業ではないかと考えられます。
直実は鎌倉にいた時、頼朝に一室に招かれ、「この度の戦いには、汝一人を頼むぞ」と肩を叩かれるや、この一途な男は、何とか手柄を立てたいと、苦慮していたのです。
そこで抜け駆けを行い、一番乗りの栄誉を狙った次第ですが、西も東も分からない山中、それに何処を尋ねて良いのやら初めての土地、考えた末に翁を連れ出すことにしました。
傍らで寝ている伜の小次郎直家を起こすと、翁の拉致を命じました。
父親の前に翁を連れて来ると、直実は翁に西木戸に案内するように頼み、旗指しを含めた直実一行が出立しようと、林に中から出た途端、義経から誰何(すいか)されたのです。
義経は抜け駆けする者がいないか、弁慶一行を連れて見回りをしていたところ、その一番手を見つけたのです。 見つかった直実は驚いた!なにしろ抜け駆けした者は切り捨てると断言した義経に見つかったのですから。
蛙(かわず)岩と呼ばれる奇岩に来ると、左手に浩々と輝く一の谷の光が見えたものの、行手を右手にとり、翁は足早に急坂を下って行きました。
一匹ずつ子を生むと云われていましたが、心無い人に子蛙は叩き壊され、大蛙の鼻先が削られて、伝承の面白さが無くなってしまったのは残念です。
【筆者紹介】
梅村伸雄(うめむら・のぶお)
昭和7年生。昭和27年鳥羽商船高等学校卒業。現在兵庫歴史研究会顧問。郷土史研究に携わる。著書に「源義経一の谷合戦の謎」(小社刊)『兵庫歴研』年会誌に「神戸にあった『難波』」、を連載中。その他「須磨一の谷説に物申す」を著す。