Pochitto(ぽちっト)神戸 | 地元のお話「神戸にあった難波」
更新:2018.11.23
第11回---地元のお話「神戸にあった難波」
【鵯越の出来ごと (8)】
さて、義経が攻撃しようとする一の谷の城が、どれほど堅固であったかお話ししましょう。
東は、旧生田川の西岸、新神戸駅の山裾から神戸市役所・東遊園地に達する生田川の土手に、幾重にも逆茂木を並べ、その陰に数万の軍勢を揃えていました。
西は烏原貯水池の山裾から湊川沿いに川崎病院を経て、新開地からJR兵庫駅・清盛塚まで逆茂木を幾重にも並べ、その陰に同じく数万の軍勢を連ねていました。
この湊川は会下山の麓にある一の谷と呼ばれた大きな湖に注ぎ西の陣の一角となり、「西は一の谷を城郭に構へ」と記される陣を構えています。
平家の陣はこれだけではありません。後陣と称して鵯越の麓にある夢野の丘から、丸山中学校を経て兵庫高校に至る尾根と、その麓から苅藻川添いに海際まで大木・大石・垣楯を連ね、その裏側には櫓を建て、十重二十重に人馬が群がっていました。
夢野の丘から兵庫高校までの尾根は、高砂の尾上(おのえ)と称し、謡曲『高砂』で有名な丘で、高砂の松とJR兵庫駅近くにあった住吉の松とが相生であるため、目出度い松と云われていました。
夢野から烏原川までの北側山裾は、屏風を立てたような急峻な崖で、攻め入ることは当然出来ません。
南は和田岬から生田川の間に数百艘の大船が列をなし、楯を並べて清盛が築いた大輪田の泊を守っています。その大輪田の泊には平家の一門が集結し、清盛の命日とあって仏事を行った後、三種の神器と幼い安徳天皇を擁しているので、此処が都であると申し、位を上げる栄誉はわが物と、大臣以下僧も俗も位を賜り、上機嫌でいます。
平家の軍勢は山陽道八箇国、南海道六箇国、都合十四箇国の軍勢を討ち従えた上に、その数十万余騎と噂される軍勢が、赤旗、赤印を並べ、太鼓を叩いて気勢を上げています。
一方の源氏は、将兵の数がかなり少ない上に、古里に帰った武者もいるし、戦いたくない様子でもある。また平家に向かった軍勢は、一・二千に過ぎないと云われ、これでは到底勝ち目がないと噂されていました。
この様な都から伝わる情報を鵜呑みにしたのか、大輪田の泊に屯した平家一門は安堵したのと、その後の後白河法皇のお達しで、「8日に和平の使者が赴くので、それまでは戦わずに待つように」と云われ、安心して使者の来るのを待っていました。
【筆者紹介】
梅村伸雄(うめむら・のぶお)
昭和7年生。昭和27年鳥羽商船高等学校卒業。現在兵庫歴史研究会顧問。郷土史研究に携わる。著書に「源義経一の谷合戦の謎」(小社刊)『兵庫歴研』年会誌に「神戸にあった『難波』」、を連載中。その他「須磨一の谷説に物申す」を著す。