Pochitto(ぽちっト)神戸 | 地元のお話「神戸にあった難波」
更新:2022.1.23
第28回---地元のお話「神戸にあった難波」
小倉百人一首、神戸で詠まれた歌を紹介します。
『古今和歌集』覊旅歌 小野篁(おののたかむら)
わたの原 八十島かけて
こぎ出でぬと
人には告げよ
蜑(あま)のつり舟
隠岐の国に流されける時に舟に乗りて出で発つとて、京なる人の元に遣はしける。
承和元年(八三四)遣唐副使に任ぜられ、承和三年と翌四年の2回に亘り出帆するが、いずれも渡唐に失敗します。承和五年(八三八)三度目の航海にあたって、遣唐大使・藤原常嗣の乗船する第一船が損傷して漏水したために、篁の乗る第二船を第一船とし常嗣が乗船しました。これに対して篁は、己のために他人に損害を押し付けるなら、面目なくて部下を率いることなど到底できないと抗議し、乗船を拒否しました。後に、篁は『西道謡』という遣唐使の事業を風刺する漢詩を作りますが、この漢詩を読んだ嵯峨上皇は激怒して、篁の罪状を審議させ、官位剥奪の上で隠岐国への流罪に処しました。篁が都を去る時に前記の歌を詠みましたが、まさに物見遊山に行く様な歌です。つまり、難波潟に在る八十島が八百万の神が宿る島であり、潮の干満により変化する島々であるために、誰もが一度は眺めたいと思っている湖です。
「雄伴、武庫、菟原、三名一国」
と言われています。
市の教育委員会の資料では、古湊川の東側は菟原郡宇治郷となっています。菟原住吉とは古湊川(兵庫の湖)の東岸に在った住吉で、神功皇后が摂津国に祀った住吉の三神で、此処で八十島祭りが行われました。
その起源は嘉祥三年(八五〇)、仁明・文徳天皇の御世に始まりました。この八十島祭りは、天皇即位の祭儀大嘗祭の翌年に難波宮に行かれ、菟原住吉の前に展開する八十島を前にして祭儀が行われます。典侍は御衣を持ち、神祇官の史(さかん)・宮主(みやじ)・御巫・神琴師や蔵人・内蔵寮官人らを率いて牛車を連ねて出発し、淀津から五隻の船で難波の菟原住吉に向かいます。祭儀は住吉の前に展開する八十島を前にして行われ、祭神は生島神(いくしましん)・足島神(たるしましん)で、潮が引くにしたがい島が生まれ、且つ育つ姿と、既に在る島が大きくなって行く姿を仰ぎ見て、この姿を國の生成を司る大八洲之霊と見立て、この霊を王位に就く天皇の衣に宿らす儀式とされ、その目的は新しい天皇の体内に大八洲之霊を付着させて国土の支配権を呪術的に保証すると考えられています。それにしても、島が生まれ大きく育つ姿は興味深いものだったと思われます。
【筆者紹介】
梅村伸雄(うめむら・のぶお)
昭和7年生。昭和27年鳥羽商船高等学校卒業。現在兵庫歴史研究会顧問。郷土史研究に携わる。著書に「源義経一の谷合戦の謎」(小社刊)『兵庫歴研』年会誌に「神戸にあった『難波』」、を連載中。その他「須磨一の谷説に物申す」を著す。