Pochitto(ぽちっト)神戸 | 地元のお話「神戸にあった難波」
更新:2019.1.23
第12回---地元のお話「神戸にあった難波」
【鵯越の出来ごと (9)】
蟻の戸と呼ばれた岩の裂け目を無事に下った武者達、早速、平家の山の手の陣を覗き見ると、平家の武者達は、高取山の北の峠で戦っている戦に気を奪われている様子。義経の奇襲部隊が頭上に居るのに、全く気付いていません。
義経は事前に用意していた白旗三十旗を適当な間隔を空けて武者達に掲げさせ、炎のような赤旗が並ぶ山の手の陣に、鬨(とき)の声を挙げて襲いかかりました。
山の手の陣(滝山町)の末端に並ぶ武者達は、突如起こった地響きと轟音に坂の上を見上げると、砂煙の中から馬の背に乗り、目を怒らせ怒号を上げ、大刀薙刀を振りかざしながら襲ってくる武者の集団に驚き、転がるように逃げ出しました。
この不意の襲撃に襲われた驚きは恐怖となり、恐怖は次々に広がり、山の手全体がパニック状態となり襲われもしないのに逃げ出しました。
逃げる軍勢の中に飛び込んだ奇襲部隊、追いつきざまに刀の峰で叩き回りました。叩かれた武者の悲鳴と、次から次に現れる白旗の波に、敵も味方も分からずに、平家の軍勢は只々逃げ回りました。
その内に襲って来た源氏の一群から火の手を挙げたため、煙が戦場を覆い、刀を振り回す武者が敵か味方か判断できないままに大輪田泊に助けを求めて必死に逃げました。
一方、大輪田泊を守っていた平家の武者達、煙と共に大勢の武者が会下山の麓から現れて来る姿を見て、敵の襲来と思い、逃げて来る武者に襲い掛かりましたが、これが味方と知り、大輪田泊(能福寺)の浜辺は、守る武者と逃げる武者とで大混乱になりました。
この混乱から逃げようと、浜辺に居た軍船にしがみつき、次々に乗り込んだため、一隻二隻三隻と転覆しました。
これを見ていた平家の総大将宗盛は、悲壮な声で「良き武者は乗すとも、雑兵ばらは乗すべからず」と叫びました。 これを聞いた船の武者共、良き武者であろうと雑兵であろうと、船べりに掛けた腕を太刀薙刀で次々に切り落としました。
かくする事とは知りながら、敵に逢うては死なずして、乗せじとする船に取り付きつかみ付き、或いは肘うち斬られ、或いは腕うち落とされて、一の谷の汀(みぎわ)に朱になってぞ並み伏したる、と記された鬼哭啾啾(きこくしゅうしゅう)たる地獄絵図が展開しました。
能福寺の兵庫大仏は、八百年前、眼下に展開した歴史の舞台を、今も悲しげに見下ろしているのです。
【筆者紹介】
梅村伸雄(うめむら・のぶお)
昭和7年生。昭和27年鳥羽商船高等学校卒業。現在兵庫歴史研究会顧問。郷土史研究に携わる。著書に「源義経一の谷合戦の謎」(小社刊)『兵庫歴研』年会誌に「神戸にあった『難波』」、を連載中。その他「須磨一の谷説に物申す」を著す。