Pochitto(ぽちっト)神戸 | 地元のお話「神戸にあった難波」
更新:2021.3.23
第24回---地元のお話「神戸にあった難波」
先のお話で、和田岬が有名な明石と語りましたので、その裏付け資料を提供します。
それは歌聖と呼ばれた、柿本人麿の歌が教えています。
天籬(あまざかる)
鄙(ひな)の長道を
漕来れば明石の門より
家の辺り見ゆ
都を離れ、長い船旅をして来ると、明石の河口より家の辺りが見えて来た。
勿論、此処に登場する明石の門は、現在の明石ではなく、和田岬にある湊川の河口です。
人麿の家は奈良の巻向山の麓に在りましたため、この歌は、和田岬に来ると懐かしい家がある巻向山が見えたと、その感動を詠んだ歌です。
和田岬から奈良の都の東にある山が見えると言うと、誰もがまさか、と思うでしょうが、本当です。
地球は丸くなっているので、遠くに離れると、遠くの物は水平線の陰に隠れてしまいます。大気の澄んだ昔は、和田岬から大坂の方を眺めると、大坂の街などは水平線の陰に隠れ、大坂城も鯱がやっと見える程になります。
見えるのは生駒山と、少し離れた処に聳える二上山、それに連なる河内の連山です。勿論、香芝サービスエリアも水平線下になり、見えません。ただ、香芝の頭越しに人麿の家の辺りにある562mの巻向山とその南の連山などが見えます。
故郷を離れ、いよいよ旅立つ者たちにとって、家族と別れる考え深い情景です。但し、明石海峡大橋の西にある現在の明石からは全く見えませんし、奈良平安時代には、今の明石市には明石という地名はありませんでした。
人麿の歌で今一つ有名な歌があります。
ほのぼのと明石の浦の
朝霧に島かくれゆく
舟をしぞ思ふ
早春の高気圧に覆われた明石の大地に寒気が漂う早朝、朝日に暖められた須磨連峰の大気がゆっくりと下り、寒気の上に乗ると、美しい横長の霧が松林を飾ります。
この情景は稀にしか見えない明石の美しい景色です。この情景の中を去って行く舟、このように美しい土地は他には見られないのに、それでも去って行くのか、という想いを込めた歌で、この歌によって、人麿は歌聖と称えられました。
この歌碑が現在の明石にあるのは、明石城の五代目城主松平信之公が、兵庫城が湊川の氾濫で壊滅状態になった時、史跡の失われるのを惜しみ、現在の明石の地に移設したためです。
【筆者紹介】
梅村伸雄(うめむら・のぶお)
昭和7年生。昭和27年鳥羽商船高等学校卒業。現在兵庫歴史研究会顧問。郷土史研究に携わる。著書に「源義経一の谷合戦の謎」(小社刊)『兵庫歴研』年会誌に「神戸にあった『難波』」、を連載中。その他「須磨一の谷説に物申す」を著す。