Pochitto(ぽちっト)神戸 | 地元のお話「神戸にあった難波」
更新:2019.5.23
第14回---地元のお話「神戸にあった難波」
【鵯越の出来ごと (11)】
平家は兵庫の湖「一の谷」より追い出されましたが、屋島に陣を布き、安徳天皇と三種の神器を後ろ盾として、時機到来したならば、いつでも都を奪回しようと構え、瀬戸内海一帯に勢力を張り巡らせていました。
この海戦に長じた平家に対し、源氏は戦いを挑むことが出来ず、一の谷合戦後の半年間無為に過ごしていました。ところが平家の戦意を削ぐ事件として後鳥羽天皇の即位があったため、以後平家は都の奪還どころか、これからの身の処し方を思案しなければならなくなったのです。
木曽義仲に都を追い出されてから三年間、平家は船の中を住まいとして海上を彷徨い、都の奪還を唯一の望みとしてはいたものの、今はその望みも断ち切られ、屋島の船の内では何を目的にして良いのか思い悩むことばかりでした。東国の軍兵来ると聞こえると、どのように戦うのかと、国母を始めとして北の政所、女房達、卑しき女どもまで、頭を集めて泣くより外には無かったのです。内大臣宗盛が申すのは、「都を出でて三年、高倉院亡くなられなかったなら、この様なみじめな思いをしなかったのに無念なり」と申し、新中納言教盛は、「東国北国の奴原は重恩を返り見ず、恩を忘れて皆頼朝に従っている。さらに西国ばかりはと思っていたが、これも我らに従わない」と愚痴ばかりで、これからの平家のありようについて良い思案のないままに時を過ごしていました。一方、西に向かった平知盛の軍勢は、長門の彦島に陣を構えて長門・豊後の水軍を集め、関東の武者が来たならば舟戦に持ち込み散々いたぶってやろうと、待ち構えていました。
一方、都では義経が裁判官兼警視庁官並の検非違使となり、地方の氾濫を鎮め、法皇の相談役になっていました。
鎌倉の頼朝は、義経の権限が日増しに強くなるのを懸念したのでしょうか、一の谷合戦半年後、やっと範頼を平家追討に向かわせることにしました。
平家追討の軍勢が都を立ったのは9月半ば、範頼軍兵数万騎が足を止めたのが、長田にあった遊郭室・高砂です。
これから平家とどのように戦うか諸国の軍兵の党首を集めて相談したのでしょうが、決められないままに遊び惚けていたのです。
これを知った都では悪評しきり、致し方なく範頼は西国に向かったのですが、長門に入った途端、食料物資に至るまで平家に持ち去られ、戦いどころではなく、周防に引き返し、いたずらに日を過ごしていました。
【筆者紹介】
梅村伸雄(うめむら・のぶお)
昭和7年生。昭和27年鳥羽商船高等学校卒業。現在兵庫歴史研究会顧問。郷土史研究に携わる。著書に「源義経一の谷合戦の謎」(小社刊)『兵庫歴研』年会誌に「神戸にあった『難波』」、を連載中。その他「須磨一の谷説に物申す」を著す。