Pochitto(ぽちっト)神戸 | 地元のお話「神戸にあった難波」
更新:2019.9.23
第16回---地元のお話「神戸にあった難波」
2月17日の夜から空が曇り雨が降り出しました。風は南から北に移り、小枝折れ砂巻き上げる風の強さです。
18日になっても風が収まりません。この強風の中で義経が舟を出せと言ったところ、船頭達は危険だから出せないと言うと、義経は「疾く疾くこの船出せ、出さない者は朝敵なれ、射殺せ斬殺せ」と申し、義経の郎党は、弓をつがえ刀を抜きます。
これに驚いた船頭達、此処で殺されるぐらいなら、海に出て波風と勝負してみようと、舟を出すことにしました。この時義経は、「義経の舟にのみ篝火を灯し、それを目標として他の舟は続け、他の舟に篝火を灯して、敵に舟の数を教えてはならない」と指示して舟を出しました。
この文言で義経の意図が分かります。皆さんに知ってもらいたいのは、舟は斜め後ろから波風を受けると間違いなく転覆します。
和田岬から友ケ島水道に向けて舟を走らすと斜め後ろから波風を受けて転覆します。まして大坂の福島 渡辺から船を出して友ケ島に向かうならば間違いなく転覆します。
従いまして、義経は和田岬から須磨の鉢伏山の麓まで、岸沿いに西に舟を走らせ、北からの波を避けて淡路島間近まで接近し、その後、平家が見張りをしている淡路島添いに舟を走らせた後、北風を真後ろから受けて友ケ島水道に向いました。この方法で舟を走らせたのでしょう。暗い内に義経一行の舟5艘は、平家の目を盗みながら友ケ島水道を走り抜けたと思います。
次いで、淡路島の南岸も島寄りに舟を走らせた後、鳴門海峡から吹く北風を背中に受けて走ったところ、阿波の国勝浦(小松島)に到着したのが卯の刻(午前6時)頃で、和田岬を出帆した後6時間ほどで荒海を走破しました。
考えてみると無謀な渡海であったわけですが、何故、この様な危険を冒したかというと、恐らく、四国在住の反平家の軍勢に決起を促し、義経と行動を共にするよう日時を決めていた結果、それに間に合わせるための行動であったかと考えられます。
義経一行は、2日間陸行して屋島に到着し、平家と戦い、佐藤嗣信の最期、那須与一の弓、義経の弓流し、志度の合戦などの物語を残していますが、梶原景時以下東国兵140余艘の軍船が、屋島に到着したのは、屋島の合戦が終わった翌日の2月22日でした。
義経は「六日の菖蒲、会(え)にあはぬ花、戦い果てての乳切木(天秤棒)かな」と、笑ったと言われています。
【筆者紹介】
梅村伸雄(うめむら・のぶお)
昭和7年生。昭和27年鳥羽商船高等学校卒業。現在兵庫歴史研究会顧問。郷土史研究に携わる。著書に「源義経一の谷合戦の謎」(小社刊)『兵庫歴研』年会誌に「神戸にあった『難波』」、を連載中。その他「須磨一の谷説に物申す」を著す。