Pochitto(ぽちっト)神戸 | 日本人と英語
更新:2021.11.23
第23回---日本人と英語
曽祖父は全盲で体が不自由だった。防空壕を掘り続けて過労で失明し、大怪我をして歩けなくなった。7歳から金剛峯寺の小僧になり、高野山大学で神学や哲学を勉強して、フランス語やドイツ語を知っていた。明治から日露戦争、2度の大戦と昭和の激動期を生きた人で、静かで厳かなお坊さんだった。
私は小学校から帰ると習った教科書のところをひいじいちゃんの枕元で読み上げた。朋子さんのお陰で誠に勉強になりましたといつも言ってくれた。英語を覚えて早速披露すると、朋子さんは英語二ストですなと褒めてくれた。呉の町の戦後復興で曽祖父は幼稚園を託されて、園舎の設計やカリキュラムを構想した。
継いだ祖母が保育園を増設して二つを経営していた。祖母は一人娘で、二十歳で原爆のキノコ雲を見た人だった。女学校の頃は戦時中で、英語は敵国語で習えなかったから残念だったと、幼稚園にECCを入れて私に習わせた。どこに行っても園長先生のお孫さんと言われたが、ECCの先生にスチュワデスという言葉を教わって、私は将来スチュワーデスになりますと言っていた。呉は軍港の町で、親戚はみな海軍さん、母方の祖父は海軍の戦闘機パイロットで特攻訓練を受けていた。16歳だった。出撃がいよいよだったが終戦になり、87歳まで自衛隊を退役した後も会社で働いていた。お金持ちだったはずだが暮らしは質素で清廉潔白な人柄だった。
孫たちはお年玉もお祝いもオゴチソウもたくさんいただいた。初孫の私を可愛がったじいちゃんもばあちゃんもひいじいちゃんも、ことさらに平和で豊かに暮らせる日本の国を文字通り一生懸命に築いてきた人たちだった。
父の仕事で京都や奈良にしょっちゅう転校していたので、私は3つの方言と標準語をようけ話す口が達者な子じゃねと親戚から言われ、祖母はほんなら英語を勉強しんさいと言って私をイギリスに留学させた。イギリスでは外国人は倍の学費を払うので、祖母の一生分の財がかかったらしい。人と人が諍いなく暮らすには、上手なコミュニケーションこそが真髄だと考えていた曽祖父は、言葉をとても大切にしていた。
亡くなる前日には、お世話になった方々の名前をお一人ずつ呼び、丁寧な言葉でお礼とお別れを言った。寝枕で古事記を語り聞かせてくれた曽祖母も言霊を信仰していた。彼女は曽祖父の命日からちょうど四十九日を過ぎた頃、言葉も食物も全てを絶って静かに横になり、無言のまま息を引き取った。
ECC鈴蘭台駅前教室 前島朋子先生