Pochitto(ぽちっト)神戸 | 日本人と英語
更新:2023.11.23
第35回---日本人と英語
森鴎外は語学の天才だった。
幼少期に漢文、父親から蘭学、13歳で入学した東京医学校では独語、そして英語に精通していた。留学先のドイツでは、自在に独語で会話や議論ができ、数多の文献を原書で読破した。
私は、教科書で見た横顔のモノクロ写真の口髭の人が、どうやって英語が話せるようになったのか知りたかった。
辞書を丸ごと覚えればいいのか、本を暗記暗唱すればいいのか、留学すればいいのか、テストで満点を取ればいいのか、彼氏を作ればいいのか。マルーン色の革張りの中英辞典を丸暗記しようと思って開くと、白紙のページの真ん中に小さく東京外国語大学云々と書いてあった。
まずもって「a」の解説が終わらない。やっと「ab」まで進むとabacus(算盤)、破壊者アバドン、その次はabandon(放棄、あきらめる)で、もはや神からのメッセージのようだった。朝から晩まで何日も読んで、どうにも覚えが悪いので自分でテストを作るが、それすら難渋する。綴りについては、そもそも一文字に読み方が何種類もあるし、同じ音でも書き方がいく通りかある。ローマ字のように書ける部分もあれば、部品のように決まった形もある。中黒点で区切ってあるから、そこまでが1単位なんだろう。abstractの抽象的という日本語は知っているが、理論的も観念的も意味がわからない。
父に「理論的」とはどういうことかと質問したら、わしの仕事は理論の研究、構築である、則ち具体の抽象化であると言うので、アブノーマルという単語も似てるねと言うと叱られて、もう途方に暮れて「抽象」だけは覚えることにした。英単語一つに二字の漢字熟語が一つずつ並んだ一覧表のようなものが大量にできて、結局、このプロジェクトは断念した。父の蔵書を暗記用にこっそり拝借して書写し、ひらがなやらアルファベットがいっぱいでは目が回るので、下に熟語で訳をつけた。
『発見適性+確保機会=幸福』という算数の式とも漢文ともつかないヘンテコな文ができて、私には英日訳はできないと肩を落とした。後で知ったが、森鴎外は独語のレクチャーを漢文でノートを取った。語順が同じで、一文字でシンプルに意味がわかる。蘭語から独語、英語へとヨーロッパ言語を繋いだのは、たとえばabが同じ意味の接頭辞だという語源の知識だった。留学先のイギリスで私は、あの辞書で見た日本の大学に思いを馳せていた。
(つづく)
ECC鈴蘭台駅前教室 前島朋子先生