Pochitto(ぽちっト)神戸 | 日本人と英語
更新:2024.5.23
第38回---日本人と英語
水王舎の出口先生にお会いした時、先生は漢字練習帳などいらん、英語の授業などいらん、とおっしゃっておられた。現代文といえば出口汪といわれる国語界のカリスマだが、「僕は薔薇という漢字は書けない」といつも話しておられる。
留学など、ひとつもしたくなかった。15歳の私には、たとえひと月だとしても、知らない人ばかりの世界に飛び込む勇気は微塵もなかった。
父の実家と転勤先を何度も転校したせいで、私はいつもよそ者だった。
幼なじみがいないと、よくいじめにあう。ようやく念願の高校に入学して、親しい男子学生もできて、珍しく晴れやかな気持ちで、初めてウキウキした学生生活だった。絶対にイギリスになど行かない、もう転校はまっぴらだと思っていた。
担任の先生はアメリカに一年留学していたというので、父から今すぐイギリスに来いと言われたがどうしたものか、相談した。留学して何を勉強したいのかと聞かれて、英語かなぁ、よく分からない、親が留学しろというからだと答えると、彼女は顔を真っ赤にして「そんなのうまくいかないわよ、やめなさい」と言った。
不思議なもので、あなたにはできないと言われると、できると証明して鼻を明かしてやりたいという反骨心が湧いた。
「じゃあ、行く」とは言ったものの、友達と別れるのが辛い、せっかく入った学校がもったいない、留学なんか行きたくないんだと何日もわんわん泣いた。
父は褒めもおだてもしない人で、私の成績がオール10でも喜ばない、作文が市長賞でも、習字が載っても、学芸会のピアノでも「まあ、えかったんじゃないんか」と頷くだけだった。反対に出来が悪いと、何をしとったんじゃと一言だけいう。
そんな父がえらく大袈裟な抑揚をつけて英語をしゃべるのがおかしかった。
テープをかけて1人で練習する英会話がどうにも滑稽で、相手役をしてあげたら、「発音は若いもんにはかなわんのう」と参った顔をした。
世の中の全てのことで唯一つ、私の方が父より上手なものがあるんだ、なるほど練習してみるとどんどん上手くなる。
誰もいないときに鏡台の前で演じてみたりして、密かに我ながらペラペラ英語をしゃべるもんだとほくそ笑む。
テストが赤点だろうがへっちゃらで、実は私はすごく英語ができると信じていた。
イギリスに行くのは嫌だったが、言葉が不安なわけではなかった。今やっと手に入れた他の全てのことを手放したとしても、あらゆる人間関係を失ったとしても、またいじめられても、留学したら英語が上手くなるんじゃないか、そのことの方が価値があるんじゃないのか、そう覚悟を決めて腹をくくった。(つづく)
ECC鈴蘭台駅前教室 前島朋子先生