Pochitto(ぽちっト)神戸 | 日本人と英語
更新:2023.1.23
第30回---日本人と英語
アボツホルムの広大な校庭の一角に、趣のある煉瓦造りの小屋が5つほど並んでいた。白雪姫が森で見つけた小人のお家のような、あたりは緑の草と遠くの木々だけで、三角屋根と格子窓がかわいい建物だった。
ある日、朝のチャペルでピアノを弾いているマットが小走りに小屋に向かっていくのを見かけて声をかけた。
扉を開けるとアップライトピアノとベンチ、一人掛けのソファがあった。驚いたことに小屋の反対側は全面ガラス張りで、部屋の中が丸見えになっている。
マットは私をソファに掛けさせ、ピアノの練習を始めた。彼が「月光」を弾き始めると、私は泣き出してしまった。Do you play?と聞かれて、Used to.と答えると、彼は、ああそうかと軽く頷いて微笑んだ。
イギリスの森の風景や、紫と青と灰色が混ざり込んだ冬の早い夕暮れを眺めながら、マットのピアノを聴いた。
空が暗くなった頃、彼が立ち上がって礼をするので、私も立ち上がって拍手をした。
アボツホルムには化学、物理、ビジネス、文学などの他に農業科、芸術科、音楽科などがあり、マットは音楽科の生徒だった。時間があれば防音室のピアノ小屋で練習をしているというので、毎日じゃ飽きないのかと聞くと、腱鞘炎で指が腫れたり、上達しないのでうんざりしたり、ピアノを見るのも嫌だと思う日もよくある、今日はオーディエンスがいて楽しかった、ありがとうトモコと彼は言った。
私はあなたが羨ましいと言うと、「君はピアノを知っているからね。
もう一度、弾き始めたらいいんじゃないかな。Use it, or lose it.」母はピアノが上手で「乙女の祈り」をよく弾いていて、漆黒のピアノを引越しのたびに大移動していた。
私が習い始めると、曽祖母が明るい茶色のピアノをポンと買ってくれて、先生がお稽古をつけてくれた。発表会でも褒められたし、先生から朋子ちゃんは才能があるから頑張りなさいと言われたが、辛くてやめた。
ピアノの防音室がなぜあんなにメルヘンチックに仕立ててあったのか、あのソファは先生用だが、弾き手が聴き手がほしい時には座ってもらえる、ガラス窓は中が丸見えというより外を眺めるためのものだったのだと、今は知っている。あれは美しい旋律を奏でる技術を磨くマットへの羨望と後悔の涙だった。
(つづく)ECC鈴蘭台駅前教室 前島朋子先生