Pochitto(ぽちっト)神戸 | 日本人と英語
更新:2025.1.23
第42回---日本人と英語
英語くらいできんと困るだろうから東京へ行って勉強すると言うと、祖母は、「ほおね、そりゃええね」とニコニコして小さく拍手をした。父は「困りゃあせん」と言った。英語ができたらお金持ちになれるんじゃないと言うと、父は「うそよのう」とせせら笑った。
しょんぼりして2階の自室へ階段を上りがてら、父の蔵書の中に、英語で立身出世した偉人の本でもないかなと探していると、『ポーツマスの旗』ー外交官小村寿太郎の伝記を見つけた。アメリカに留学して英語が抜群に堪能で、明治政府の外務大臣でありポーツマス条約で活躍した日本人外交官のエースだ。
もとは古典が好きな小村が、父親から洋学を勧められ、15歳でしぶしぶ長崎に留学したというのは、どこか私の境遇に似ている。寡黙で内向的な性分なのに、居留地に出向いて片っ端から外国人に話しかけて英語を独習した。
あのマイケル・サンデル教授で有名なハーバード大学のロースクールで3年、その後ニューヨークの法律事務所で実務をやって、要人の通訳も務めている。英語で法律を勉強するのは骨の折れることだったろうが、お陰で翻訳の仕事にありつき、はたまた翻訳の仕事で洋書を読み込むので、当時の最先端の知識や技術に造詣が深かった。英語ができることに加えて、そうした博識さを見込まれて陸奥宗光に引き立てられたのだ。
小村寿太郎という人は、まさに英語という語学スキルを駆使し、日本の命運を背負った外交の舞台で、その手腕を余すところなく発揮した歴史的なエリートなんだと興奮気味にページをめくった。
しかしそこには、留学を勧めてくれた当の父親が経営していた商社が倒産して莫大な借金を抱えることになり、恩師の遺児2人の養育費まで払い、家には火鉢1つと座布団2枚しかない、お金持ちとは程遠い困窮した小村の私生活が綴られていた。洋書の翻訳は勤め先にまで押しかけてくる取立ての返済のためだった。卑屈になるのを嫌って援助を受けず、ポーツマス講和会議での英断は人々に理解されず、家に石を投げ込まれた。およそ人の幸せたる物も情も、一切を失った不遇な最期を遂げた人だった。英語の得意な天才外交官が立てたポーツマスの旗は、かくも悲しくて、尊いものだった。「お父さん、それでも私には英語しかできないんですよ」と言ったら、父は「ええんじゃないんか」と言った。(つづく)
ECC鈴蘭台駅前教室 前島朋子先生