Pochitto(ぽちっト)神戸 | 街角浪漫
更新:2019.11.23
第17回---街角浪漫
1983年のノーサイド
昭和58年、55,000人が国立競技場に集い熱狂の渦に包まれていました。大学ラグビーの決勝戦です。優勝候補の早稲田は準決勝で、スタンドオフの本城のゴールを狙ったキックがポールを逸れてユーミンの歌にはなりましたが明治に破れ、この時の決勝戦は、明治と同志社との死闘でした。
我が街出身の萩本さん達が卒業して神戸製鋼に入った後にもかかわらず、大八木、そして平尾の神業的なプレーで見事に同志社が連続優勝を勝ち取りました。
その後、彼らも神戸製鋼に入り中心となって7連覇の偉業を成し遂げてくれました。そして何よりも震災後に再び頂点に立ち、仰木監督率いるブルーウェーブの日本一と共に神戸の人達の心の支えになってくれました。
当時もラグビーは東京競馬場に次いで人を集めるスポーツと言われていました。が、第一回から連続参加しているワールドカップの第三回でオールブラックスに144点も取られてしまったゲームを境に、人気はどこかに消えて衰退への道を辿っていきます。
原因はプロ化への遅れと言われています。アマチュアリズムの追求は、品位、情熱、結束、規律、尊重を向上させるためには貴重な事ですが、選手を含めた組織の強化にはあまり有効ではなかったみたいでした。そこから試行錯誤を繰り返しながら24年後、市内中に世界の陽気な人々が集い、祭りのようにビールを楽しみ、買い物帰りのおばあちゃんが卵を前に落としたらノックオンしてしもた等々流行語大賞にノミネートされようかというほど注目される様になってしまいましたが、中山橋から鈴蘭台駅に向かう途中、最初の信号の中央住機の左に今は駐車場になっている所に萩本診療所がありました。
院長先生は関西のラグビー関係者なら誰もが知る有名人でしたが、前述しました息子さんの光威さんは、旧体制最後の日本代表監督を務められておられたのです。今が波の頂点ならまさに一番底の時代のときでしたが、苦労しながら今に繋がる新体制を構築されて行かれたのは、実は我が街の人が深く関わっておられたのです。
その人達とこの街で青春時代を共有出来たことを少し誇りに思います。
作 山善寿司 大将