Pochitto(ぽちっト)神戸 | 街角浪漫
更新:2023.5.23
第38回---街角浪漫
神戸の街には、奈良時代から変わっていない道が至る所に残っている事に驚かされます。都から太宰府に向かう道として作られた山陽道は、徳川の時代になると西国街道として整備され、市内中を東西に通過していきます。
例えば須磨寺から長田神社に向かう道は西市民病院の山側の山陽電鉄が路面を走っていた道を通り兵庫駅から柳原蛭子神社を過ぎ、味噌ラーメンで有名なさつきから二号線をまたいで門口から赤江ふとん店を超え、神明神社から兵庫大仏がおられる最澄さん所縁の能福寺を海側に眺めながら進むと、右和田岬左築島寺の道標に到着します。
ここから神戸駅にむかってほぼ直角に曲がりますが、ここまでの道は幾多の艱難辛苦を乗り越えて、平清盛が都を移す前から千年以上変わらずに残っています。源氏の時代が終わると、清盛が残した築島の港は息を吹き返し、室町幕府三代将軍足利義満が博多の中国商人から宋との独占貿易をもくろみ大和田の泊をタブレットを使った天龍寺船の最終目的地に定め、より一層整備し「兵庫津」にしていきます。
織田信長の時代には池田恒興が陥落した花隈城の資材を使って兵庫城を作りかけますが、本能寺の変の後豊臣秀吉の直轄地となり、その後江戸時代になると尼崎藩となり遂に城造りは中止されましたが、幕府は摂津を天領とした為、その場所に代官所が設置され、更に明治維新の際には初代兵庫県庁として生まれ変わりました。
イオンモール建設の時に城跡の石垣が出現し、発掘調査後一部が保存され兵庫津ミュージアムとして展示されています。以前は中央市場の旧館が有りましたが、取り壊される前に記憶に有る限り、ジャッキーチェンの新宿サメ、二宮君のGANTZ、北野武のアウトレイジのロケ地となっていました。
ところで、神戸市民かそうでないかの見分け方を知っていますか。道標から神戸駅に向かっていくと、神戸商工会議所発祥の地など旧跡が至る所に残っているのですが、その一つにノーベル賞に五回もノミネートされた賀川豊彦生誕の地も近所にありますが、生協の生みの親とも云われる人です。神戸の人はみんな生協と言わずに親しみを込めてコープさんと呼びますよね。それは女子高生が子供服メーカーの熊のカバンを持ち歩く位普通の事です。
西国街道は七宮神社の山側を通り湊八幡神社に建っている湊口惣門跡を越えて神戸駅の哩程元標に辿り着きますが、いにしえの旅人が歩いた道のままです。どの時代にでもタイムトラベルが出来ますよ。
作 山善寿司 大将