Pochitto(ぽちっト)神戸 | 街角浪漫
更新:2023.9.23
第40回---街角浪漫
鈴蘭公園に恒例になった花火が上がり鈴蘭公園に恒例になった花火が上がり、月に二回も満月が夜空に輝いた暑かった夏もようやく終わり、お彼岸を迎えましたが、御先祖様への御供養が増大するとの事ですので、仏壇の有るお方は合掌いたしましょう。
来月になると神様は出雲に行かれてしまいますが、山田町中村に在る六条八幡神社では神戸市内では唯一の流鏑馬(やぶさめ)が10月8日の日曜日に行われます。六条八幡の由来は神戸ゆかりの神功皇后の船の底に塗る水銀を丹生山から運んだとされた頃には若宮八幡宮と呼ばれていました。
平家没官領のこの地を源頼朝が京都の六条西洞院に住んでいた源為義に与えた事からそう呼ばれるようになりました。
この神社、面白い事に室町時代に建てられた三重塔が社殿の横に並んでいます。何故なら明治の始めの廃仏棄釈による迄円融寺という寺も隣接されていたからです。
しかしここは天領ですので武士はいないはずです。室町時代から続いているこの神事、何故残っているのでしょう。
確かに織田信長の命による三木別所攻めの際には、豊臣秀吉に反旗を翻し、花隈城に籠った荒木村重軍に兵糧を届けたり、また東下に有った城山において戦いを挑みますが、平清盛が延暦寺に見立てた丹生山明要寺、更には西国街道のバイパスに有った淡河城と共に秀吉の弟の秀長の軍勢に焼かれてしまいます。
その後徳川の時代になると、天領となった摂津の西端になる此処は天下泰平が250年以上続きますが、幕末と共に歴史の波に揉まれていきます。
江戸からは後に新選組になる浪士組を旗揚げした清川八郎達が京都に入り、全国から勤王の志士達が駆けつけて来ます。淡河は当時徳川譜代の松平直到(なおむね)が藩主の明石藩ですので攘夷撲滅の為、40人以上の農民があの新選組に参加していきます。
その中に山田村の若者も数名京都を目指していきましたが、明治維新になると、何のイチャモンを薩長連合に吹っ掛けられるか分かったもんじゃありませんので、ここから出発した新選組は消し去られますが、関東で惨殺された清川八郎を匿ったとされる家が淡河に有って、匿った部屋は介護した際の血が飛び散り「地塗りの部屋」と呼ばれる等伝承は残っています。
明治になると長崎ではビックリする程十字架を掲げた信者達が現れたように、室町時代から500年以上続く流鏑馬は、故郷を守り抜く自衛心と先代から受け継いだ伝統を忘れぬために脈々と受け継がれていったのかも知れません。市の無形文化財にもなっているこの神事の時、晴れていたら良いですね。
作 山善寿司 大将